第9話 風邪を引いたら先輩が来た
金曜日の朝、目を開けた瞬間に終わったと思った。
喉が痛い。
頭が重い。
関節が、誰かに勝手に分解されて雑に組み直されたみたいに軋んでいる。
枕元のスマホを手探りで掴み、画面を見る。
七時二十二分。
いつもなら、あと八分で起きる時間だ。
いや、今日は無理だ。
明らかに無理だ。
「……詰んだ」
声に出したつもりだったが、出てきたのは掠れた息だけだった。
昨日は少し遅くまで作業していた。
本業のUI改修案の差し戻し対応。副業の表紙ラフ修正。さらに、氷室怜奈さんに出された生活防衛資金の試算。
家計簿アプリとスプレッドシートを行ったり来たりしているうちに、気づけば深夜二時を過ぎていた。
暖房をつけたまま、ソファで寝落ちした。
そして今に至る。
完全に自業自得だった。
俺は布団の中でスマホを操作し、会社の勤怠連絡を入れた。
『発熱と喉の痛みがあるため、本日お休みします。関係各所への共有は済ませます』
送信。
数分後、直属の上司から返信が来る。
『了解。お大事に。今日のレビューは来週に回します』
ありがたい。
次に、チームチャットへ最低限の引き継ぎを流す。
そこでスマホを置くつもりだった。
だが、通知が一件増えた。
氷室さんからだった。
『体調不良と聞きました。熱は何度ですか』
なぜ知っている。
いや、チームチャットを見たのだろう。氷室さんも同じプロジェクトの関係者だ。
俺は体温計を脇に挟んだ。
待つ。
ピピピ、と鳴る。
三十八度二分。
うん。
完全に終わっている。
『38.2です。寝ます』
すぐに既読がついた。
『病院は?』
『市販薬で様子見ようかと』
『喉が痛いなら診てもらった方がいいです。今日、近所の内科は開いていますか』
開いているかどうかも知らない。
俺は布団の中で検索しようとして、途中で面倒になり、目を閉じた。
だめだ。
頭が働かない。
数分後、スマホが鳴った。
通話だった。
相手は氷室さん。
俺は一瞬、飛び起きそうになったが、体がついてこなかった。
「……はい」
『声がひどいわね』
「朝イチでディスらないでください」
『ディスではなく観測よ。今、ひとり?』
「ひとりです」
『水分は?』
「たぶん、あります」
『たぶん?』
「冷蔵庫に、炭酸水が」
『発熱時に炭酸水だけで乗り切ろうとしているの?』
「シュワっとして気分が」
『今すぐ普通の水か経口補水系のものを飲んで』
「家にないです」
電話の向こうで、氷室さんが小さく息を吐いた。
『わかりました。住所を送って』
「え?」
『差し入れを置いていきます。玄関前に置いたら連絡するから、無理に出なくていいわ』
「いや、そこまでしなくても」
『高瀬くん』
「はい」
『病人は判断力が落ちるの。今のあなたは特に』
「特にって」
『住所』
逆らえなかった。
俺はぼんやりした頭で住所を送った。
送ってから、急に別の意味で熱が上がった。
待て。
氷室さんが、うちに来る。
俺の部屋に。
いや、玄関前に差し入れを置くだけだと言っていた。
入るわけではない。
入るわけではないが、玄関を開けた時、部屋の中が見える可能性がある。
俺はゆっくり視線を巡らせた。
部屋は、終わっていた。
おしゃれな部屋にしようという意志だけはある。
ウォールナットのローテーブル。
間接照明。
少し高かったソファ。
観葉植物。
壁には好きなゲームのアートポスター。
だが、現実は厳しい。
テーブルには領収書の束。
床には脱いだパーカー。
デスクにはコーヒーカップ。
ソファの上にはブランケットと読みかけの資料集。
キッチンのシンクにはマグカップとグラス。
雑。
とても雑。
「……死ぬ」
俺は布団から這い出ようとした。
しかし、立ち上がった瞬間に世界が傾いた。
無理だった。
俺はそのまま布団に戻った。
部屋の惨状より、命が大事。
たぶん。
それから一時間ほど、俺は眠ったり起きたりを繰り返した。
インターホンが鳴ったのは、午前十時過ぎだった。
スマホにも通知が来る。
『玄関前に置きました。出られますか』
俺はよろよろと起き上がり、玄関まで歩いた。
ドアを開ける。
そこには、紙袋が二つ置かれていた。
経口補水液。
スポーツドリンク。
ゼリー飲料。
冷却シート。
のど飴。
レトルトのお粥。
小分けのうどん。
ティッシュ。
マスク。
解熱鎮痛薬。
完璧だった。
完璧すぎて怖い。
「……氷室さん、災害対策本部?」
小さく呟いた時、廊下の角から本人が戻ってきた。
帰ったと思っていたのに。
黒いコートの襟元で、髪はベージュのシュシュでゆるくひとつにまとめられていた。
手には追加の小さな袋を持っている。
「起きられたのね」
「あ、はい。ありがとうございます。すみません、こんなに」
「薬局で必要そうなものを買っただけよ」
「必要そうなものの精度が高すぎます」
「一人暮らしの発熱で必要なものは、だいたい決まっているわ」
「経験者ですか」
「まあね」
氷室さんは俺の顔を見て、少し眉を寄せた。
「顔色が悪いわ」
「もともと色白イケメンなので」
「冗談が出るなら、意識はあるわね」
「ひどい判定」
「病院、行けそう?」
「今からですか」
「午前診に間に合うところが近くにあるわ。調べた」
「調べた?」
「この辺りの内科を三件。口コミと診療時間も見た」
「仕事が早い」
俺はドア枠にもたれた。
正直、外に出るのはしんどい。
しかし氷室さんの目は、完全に行かせる気だった。
「わかりました。行きます」
「歩ける?」
「たぶん」
「たぶんは禁止」
「歩けます」
氷室さんは一瞬だけ迷うように視線を落とした。
「タクシーを呼びます」
「そこまでしなくても、歩いて十分くらいなら」
「発熱時に無理をしない」
「はい」
「あと、保険証と診察券。お薬手帳があればそれも」
「あります。たぶん」
「たぶん」
「探します」
俺は玄関から部屋へ戻ろうとして、ふと気づいた。
ドアを開けっぱなしにしている。
そして、氷室さんの位置から、部屋の中がけっこう見えている。
領収書の束。
床のパーカー。
ソファの上のブランケット。
デスクのコーヒーカップ。
終わった。
俺の生活感が、すべて開示された。
「……見ました?」
「少し」
「忘れてください」
「無理ね」
「でしょうね」
氷室さんは静かに言った。
「でも、思っていたよりは片付いているわ」
「それ、褒めてます?」
「想定が低かっただけ」
「俺の信用が底値」
「今から上げればいいわ」
その言い方が優しくて、俺は風邪で弱った情緒に直撃を受けた。
やめてほしい。
発熱時の好意は、通常時より三倍くらい効く。
病院では、喉の炎症と風邪症状だろうということで薬を処方された。
インフルエンザなどの検査も必要に応じて確認し、ひとまず自宅で休むことになった。
会計を済ませ、処方箋を持って薬局へ向かう。
氷室さんは付き添いながら、必要以上に近づきすぎず、でも俺がふらつくとすぐ支えられる距離にいた。
その距離感が、やばい。
甘すぎない。
でも、冷たくもない。
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