第8話 生活防衛資金は自由のためのお金
「俺、貯金って、守りだと思ってました」
「守りでもあるわ」
「でも、攻めにもなるんですね」
「なるわ。特に、あなたみたいな仕事の人には」
あなたみたいな仕事の人。
それは、俺の職業や副業をちゃんと見た上での言葉だった。
画面を作る人間。
絵を描く人間。
文章を書く人間。
自分の感情や感覚を、仕事にもしている人間。
そんな俺が、自分の生活を雑に扱えば、作るものにも影響する。
氷室さんは、たぶんそれをわかっている。
「じゃあ、この還付されるかもしれないお金は……」
「まず生活防衛資金」
「全部?」
「全部とは言わないわ。人は楽しみがないと続かないから」
「おお」
「ただし、先に割合を決める」
「割合」
「たとえば、七割は生活防衛資金。二割はNISAなど将来のため。一割は自由に使っていいお金」
「NISA」
出た。
聞いたことはあるけれど、詳しくはわかっていない単語。
SNSでは、やった方がいいとか、いや暴落が怖いとか、最初に設定すれば放置でいいとか、色々流れてくる。
「いきなり大きく始める必要はないわ」
氷室さんは俺の顔を見て、先回りするように言った。
「制度やリスクを理解して、無理のない金額で。まずは生活防衛資金が優先」
「投資より先に現金」
「そう。投資は、値動きがあっても生活が揺れない範囲でやるものよ」
「俺、値下がりしたらめちゃくちゃ慌てそうです」
「でしょうね」
「即答」
「だから今は、狼狽しない土台を作る」
狼狽しない土台。
それは、お金だけの話ではないような気がした。
告白して振られて、衝動買いしようとして止められて、サブスクを切られて、副業収入を整理して。
俺はずっと、自分の感情に振り回されていた。
嬉しいから買う。
悲しいから買う。
不安だから買う。
寂しいから買う。
感情が動くたびに、決済ボタンを押していた。
でも氷室さんは、感情を否定しない。
ただ、そのたびに人生を削るな、と言う。
「氷室さん」
「何?」
「俺、還付金でタブレット買うの、やめます」
氷室さんは、少し驚いたように瞬きをした。
「本当に?」
「はい。今すぐ必要じゃないので」
「そう」
「でも、いつか買いたいです」
「それはいいと思うわ」
「いいんですか?」
「必要になる時が来たら、予算を決めて買えばいい。欲しいものを全部我慢する必要はない」
「……氷室さんって、厳しいけど、俺の好きなものを嫌いなわけじゃないですよね」
「当たり前でしょう」
氷室さんは、少しだけ眉を寄せた。
「私は、あなたが好きなものを否定したいわけじゃないわ」
心臓が跳ねた。
あなたが好きなもの。
その言い方に、勝手に反応してしまう。
違う。
そういう意味ではない。
わかっているのに。
「高瀬くん?」
「はい」
「顔が赤いけど」
「暖房が強いですね」
「そうかしら」
「強いです」
俺は慌てて視線を逸らした。
氷室さんは数秒こちらを見ていたが、追及はしなかった。
「それなら、まず専用口座を作るか、今の口座内で生活防衛資金を分けて管理する方法を考えましょう」
「専用口座」
「見える場所にあると使ってしまうでしょう」
「否定できません」
「だから、使うお金と守るお金を分ける」
「画面のレイヤー分けみたいですね」
「あなたは本当に何でもUIにするわね」
「その方が理解しやすいので」
氷室さんは少しだけ笑った。
小さな笑いだった。
でも、俺には十分すぎるくらいだった。
「じゃあ、生活防衛資金は背景レイヤーね」
「背景?」
「普段は目立たないけど、そこが崩れると全部崩れる」
氷室さんの言葉に、俺は思わず頷いた。
「めちゃくちゃわかりやすいです」
「なら、そう覚えて」
「はい」
「NISAは?」
「えっと……長期で育てるパーツ?」
「悪くないわ」
「恋愛は?」
口が滑った。
完全に滑った。
俺は自分の口を殴りたくなった。
氷室さんは黙った。
やばい。
これはやばい。
振られた相手に、職場で、生活防衛資金の話をしている最中に、恋愛を例えに出すな。
「すみません、今のは」
「恋愛は」
氷室さんが静かに言った。
俺は息を止めた。
「短期売買には向かないと思うわ」
それだけ言って、彼女はタブレットに視線を戻した。
俺は数秒、固まった。
それはどういう意味ですか。
長期ならいいってことですか。
俺、まだ損切りしなくていいんですか。
聞きたいことが一気に湧いた。
でも、聞けなかった。
氷室さんの横顔が、いつも通りに見えて、ほんの少しだけ耳が赤かったから。
「……肝に銘じます」
「そうして」
午後の始業時間が近づき、氷室さんは立ち上がった。
「今日の宿題」
「また宿題が」
「生活防衛資金の目標額を決めること。毎月いくら積み立てられるか試算すること。還付金は、確定するまで使い道を決め切らないこと」
「はい」
「それと」
「はい」
「タブレットの商品ページを、少なくとも今週は開かないこと」
「監視が厳しい」
「必要な監視よ」
「了解です」
氷室さんは自分のデスクへ戻っていった。
俺はしばらく、その背中を見ていた。
凛としていて、無駄がなくて、でも時々、こちらが困るくらい優しい。
振られた。
それは変わらない。
でも、今日の氷室さんは、俺に未来の話をした。
独立のこと。
選択肢のこと。
狼狽しない土台のこと。
恋愛は、短期売買には向かないということ。
「……短期売買じゃないなら」
俺は小さく呟いた。
長期保有なら、まだ可能性はあるのだろうか。
いや、調子に乗るな。
まずは生活防衛資金だ。
俺は家計簿アプリを開き、今日のメモ欄に書いた。
還付金は臨時収入ではない。
生活防衛資金は、選択肢を持つためのお金。
恋愛は短期売買に向かない。
最後の一文を見て、どうしても口元が緩む。
その時、社内チャットに通知が来た。
氷室さんからだった。
『タブレットのページを閉じたのは確認しました』
俺は吹き出しそうになった。
どこまで見ているんだ、この人は。
すぐに返信する。
『監査が優秀すぎます』
数秒後、既読がついた。
『あなたの浪費傾向がわかりやすすぎるだけです』
ひどい。
でも、そのあともう一通来た。
『ただ、今日の判断はよかったと思います』
俺はスマホを伏せた。
無理だ。
そんなことを言われたら、午後の仕事を頑張るしかない。
タブレットは買わない。
還付金にも手をつけない。
まずは生活防衛資金。
そして、恋もたぶん。
短期で結果を求めずに、少しずつ積み立てていくしかないのだと思う。
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