第7話 還付金で散財しようとして止められる
十二月に入った途端、会社の空気が少しだけ浮つき始めた。
エントランスには控えめなクリスマスツリーが置かれ、社員食堂のデザートには期間限定のチョコムースが並び、社内チャットでは忘年会の出欠確認が流れ始める。
そして俺、高瀬湊は、自分のデスクでひとり、静かに震えていた。
怖いからではない。
嬉しいからだ。
「……戻ってくる」
モニターに表示された試算画面を見つめながら、俺は小さく呟いた。
まだ確定ではない。
氷室さんにも、専門家や税務署の確認が必要な部分はあると言われている。
それでも、会社の年末調整に加えて、副業で源泉徴収されていた案件や、控除に関わりそうなものを仮入力した結果、どうやら少しお金が戻ってくる可能性があるらしい。
還付。
なんて美しい響きだろう。
還ってくる。
つまり俺のもとに帰ってくる。
長い旅を終えたお金たちが、「ただいま、湊」と言って帰ってくるのだ。
「おかえり……」
思わず呟いた瞬間、背後から声がした。
「まだ帰ってきていないわ」
俺は椅子ごと跳ねた。
振り返ると、氷室怜奈さんが立っていた。
今日も姿勢がいい。白いニットに黒いタイトスカート、上からグレーのジャケット。
手にはタブレットとマグカップ。たぶん会議帰りだ。
「氷室さん、忍者ですか」
「普通に歩いてきたわ」
「俺の還付金への語りかけ、聞きました?」
「聞いたわ」
「忘れてください」
「無理ね。記録したいくらいだった」
「やめてください。社内ナレッジに残さないでください」
氷室さんは俺のモニターを見た。
「試算したの?」
「はい。昨日、領収書を整理したので、入れられるところだけ」
「えらいわね」
不意打ちだった。
俺は一瞬、言葉を失った。
「……今、褒めました?」
「褒めたわ」
「もう一回お願いします」
「調子に乗らない」
「はい」
胸の奥がじわじわ温かくなる。
俺はこの人に振られている。
恋愛対象ではない、と言われている。
それなのに、「えらい」と言われただけで、今日一日分の疲れが吹き飛びそうになるのだから、自分でも単純すぎて呆れる。
「で」
氷室さんの視線が、俺のブラウザの別タブに移った。
「これは何?」
しまった。
閉じ忘れていた。
そこには、新型タブレットの商品ページが開かれていた。
薄い。軽い。描ける。映像も綺麗。クリエイター向け。
しかも今ならペンとキーボードカバーのセット割。
価格、十六万八千円。
「……資料です」
「何の?」
「未来の」
「具体的に」
「創作環境改善に関する市場調査です」
「購入ボタンの上でカーソルが止まっている市場調査?」
「実地調査に進む可能性もありました」
「却下」
「まだ何も言ってないのに!」
「顔に全部書いてあるわ。還付金で買おうとしていたでしょう」
「だって、戻ってくるなら実質無料じゃないですか」
氷室さんの目が、すっと細くなった。
あ。
俺は今、何かまずいことを言った。
「高瀬くん」
「はい」
「還付金は、空から降ってきたお金ではないわ」
「はい」
「本来、あなたのお金だったものが、計算の結果戻るだけ」
「はい」
「だから、戻った瞬間に使い切っていい理由にはならない」
「……はい」
正論の氷柱で刺された。
俺はそっと商品ページを閉じた。
だが未練はある。
かなりある。
「でも、タブレットは仕事にも副業にも使えます」
「今使っているものは?」
「三年前のモデルです」
「壊れている?」
「壊れてはいません」
「作業に支障は?」
「支障は……」
ない。
正直、ない。
少し重い。バッテリーも弱ってきた。最新モデルの方が快適なのは間違いない。
でも、今すぐ買わないと仕事ができないわけではない。
「支障は、少しあります」
「具体的に」
「気分が上がらない」
「それは支障ではなく欲望ね」
「欲望を否定しないでください」
「否定はしていないわ。分類しているの」
欲望を分類された。
俺は机に額をつけたくなったが、職場なので我慢した。
氷室さんは隣の空いている椅子を引き、俺のデスク横に座った。
近い。
横からふわりと、柔らかい香りがした。香水なのか、柔軟剤なのか、わからない。甘すぎなくて、冷たすぎない香り。
仕事中なのに、変に意識してしまう。
「高瀬くん」
「はい」
「今、別のことを考えているでしょう」
「考えてません」
「そう」
「すみません、考えました」
「正直でよろしい」
氷室さんはタブレットを開き、簡単な表を表示した。
「今日は、生活防衛資金の話をします」
「生活防衛資金」
「名前の通り、生活を守るためのお金よ。病気、失業、転職、家族の事情、急な出費。そういう時に、すぐ使える形で持っておく資金」
「貯金とは違うんですか?」
「貯金の一部だけれど、目的を明確にしたものね」
氷室さんは、俺の毎月の支出をざっくり並べた。
家賃。
食費。
通信費。
光熱費。
交通費。
サブスク。
趣味費。
副業に関わる支出。
先週まで目を逸らしていた数字たちが、今はきれいに表になっている。
怖い。
でも、少しだけ見慣れてきた。
「まずは最低三か月分。できれば六か月分」
「六か月」
「あなたの場合、副業もしているし、クリエイター職は転職や環境変化もあり得るでしょう。選択肢を持つためにも、現金の余力はあった方がいい」
「選択肢」
「そう」
氷室さんは、そこで一度言葉を切った。
「高瀬くんは、いつか独立したいと思ったことはある?」
思ってもみない方向から来た。
俺は少しだけ固まった。
「……あります」
答える声が、自分でも意外なほど小さかった。
「本気で?」
「本気、というほどではないです。でも、考えたことはあります。副業で依頼を受けるのは楽しいし、自分の名前で仕事が来るのは嬉しいので」
「そう」
「でも、怖いです」
「何が?」
「仕事がなくなったら終わるな、とか。会社員なら毎月給料が入るけど、独立したらそうじゃないし。あと、俺、今の感じだと絶対にお金の管理で死ぬので」
「そこは自覚があるのね」
「だいぶ出てきました」
氷室さんは少しだけ頷いた。
「生活防衛資金は、我慢のためのお金じゃないわ」
「え?」
「逃げるためでも、選ぶためでも、挑戦するためでもある。嫌な環境にしがみつかないため。無理な案件を断るため。体調を崩した時に休むため。いつか独立したいと思った時に、即死しないため」
俺は、何も言えなくなった。
貯金。
その言葉には、どこか地味で、退屈で、つまらないイメージがあった。
欲しいものを我慢すること。
今を削って、遠い未来に備えること。
そう思っていた。
でも氷室さんは、違う言い方をした。
選択肢を持つためのお金。
その言葉は、俺の中にすとんと落ちた。
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