第6話 推しは経費にならない
思わず顔を上げた。
氷室さんは、当然みたいな顔をしていた。
「なら、そのお金も雑に扱わないこと」
胸の奥が、じんと熱くなった。
俺はこの人に振られている。
それでも、氷室さんは俺の仕事を馬鹿にしない。
副業を、遊びだと切り捨てない。
お金の話を通して、俺が作ったものの価値まで見てくれる。
そんなの、どうやって忘れたらいいんだ。
また好きになるに決まっている。
「氷室さん」
「何?」
「今の、かなり嬉しかったです」
「そう」
「俺のこと、やっぱりめちゃくちゃ見てません?」
「数字を見ているだけよ」
「数字って、人が出ますね」
「出るわね」
氷室さんが静かに頷いた。
「あなたの数字は、才能と不安と衝動が全部出ている」
「裸より恥ずかしいこと言わないでください」
「裸の方が恥ずかしいし、見せたのはあなたよ」
「見せろって言ったのは氷室さんです」
「そうね」
少しだけ、笑ったように見えた。
昼休みが終わるまでに、俺たちは副業収入の一覧を整えた。
収入。
経費候補。
確認が必要なもの。
領収書を探すもの。
申告時に相談するもの。
氷室さんは最後に、俺のノートPCの画面を指した。
「今日から、入金があったら必ず記録」
「はい」
「領収書は捨てない」
「はい」
「決済メールも残す」
「はい」
「何でも経費にしようとしない」
「はい」
「不安なら、税務署や専門家に確認」
「はい」
「そして、確定申告を怖がって放置しない」
「……はい」
俺は深く頷いた。
怖い。
正直、今も怖い。
でも、何が怖いのかは少しわかった。
知らないから怖いのだ。
見ていないから怖いのだ。
なら、見るしかない。
「ところで」
氷室さんが言った。
「副業収入が入った月、支出が跳ねているわね」
「え」
「この月、イラスト依頼の入金が三件。直後に、ガジェット、スニーカー、照明、コーヒー豆、フィギュア」
「やめてください。事件の時系列みたいに読み上げないでください」
「事件よ」
「何事件ですか」
「収入が入ると気が大きくなる事件」
「全国で起きてそう」
「あなたの家計で頻発しているわ」
俺は机に額をつけた。
「もうだめだ。俺の金銭感覚が全裸にされてる」
「服を着せるために整理しているの」
「そういう表現やめません?」
「言いだしたのはあなたよ」
氷室さんは涼しい顔でタブレットを閉じた。
「午後の会議まであと五分ね」
「俺の精神は会議に出られません」
「出て。高瀬くんの画面設計レビューがある」
「仕事はします」
「えらい」
さらっと言われた。
えらい。
たった三文字なのに、心臓に悪い。
「氷室さん、そういうのずるいです」
「何が?」
「急に褒めるところ」
「必要なフィードバックをしただけよ」
「俺には効きます」
「なら、仕事にも効かせて」
「はい」
俺はノートPCを閉じ、食器を片付けた。
午後の会議は、いつも通りだった。
俺がUI改修案を説明し、開発チームが実装工数を出し、氷室さんが予算と効果検証の観点から質問する。
彼女は仕事中、俺に特別な顔をしない。
さっきまで俺の副業収入と領収書を見ていたことなど、まるでなかったみたいに冷静だった。
それが少し寂しくて、少し安心する。
会議が終わり、席に戻ると、チャットが一件届いていた。
氷室さんからだった。
『今日作った副業収入シート、今月中に更新しておいてください』
業務連絡みたいな文面。
その下に、もう一行。
『あなたの作るものに価値があることと、お金を雑に扱っていいことは別です』
俺はしばらく、その文章を見つめた。
やっぱりずるい。
この人は、俺を突き放す。
恋愛対象ではないと言う。
でも、俺が自分で自分を雑に扱おうとすると、必ず止める。
俺は返信欄に、少し悩んでから打った。
『了解です。今月からちゃんと記録します』
送信。
すぐに既読がついた。
返事はなかった。
けれど数分後、氷室さんが向こうの席でこちらを見た。
目が合う。
彼女はほんの少しだけ頷いた。
それだけで、俺は今日も通販サイトを開かずに済みそうだった。
その夜。
家に帰った俺は、机の引き出しを開けた。
そこには、いつか整理しようと思って突っ込んでいたレシートや領収書が山のように入っている。
見たくない。
見たくないが、見なければいけない。
俺はスマホを立てかけ、氷室さんに言われた通り、領収書の写真を撮り始めた。
日付。
金額。
内容。
途中で、去年買ったコーヒーメーカーのレシートが出てきた。
価格、六万九千八百円。
俺はしばらくそれを見つめる。
そして、経費候補フォルダではなく、生活費フォルダに入れた。
「税金は願望では減らない、か」
小さく呟く。
悔しいが、いい言葉だ。
俺は家計簿アプリを開き、今日のメモにこう書いた。
副業収入は、お小遣いじゃなくて収入。
推しは経費にならない。
氷室さんは、俺の作るものに価値があると言った。
最後の一文を見て、少しだけにやける。
だめだ。
全然だめだ。
振られたのに、まだ好きだ。
しかも、前より少し好きだ。
確定申告は怖い。
領収書の山も怖い。
自分の数字を見るのも怖い。
でも、氷室さんが俺の未来を見てくれるなら。
俺も少しは、自分の未来を見てもいいのかもしれない。
そう思いながら、俺は次のレシートを手に取った。
限定スニーカー。
価格、三万九千八百円。
「……これは」
俺は数秒考えた。
そして、生活費フォルダに入れた。
経費ではない。
ただの、俺の見栄だ。
でもそれを認めた瞬間、少しだけ気分が軽くなった。
たぶんこれも、整理なのだと思う。
画面の中だけじゃない。
生活も、感情も、恋も。
いらないものと、必要なものを分けていく。
そして俺はたぶん、まだ氷室怜奈さんを削れない。
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