第5話 副業収入がバレた
その水曜日、俺は自分の人生で初めて「源泉徴収票」という言葉を真剣に見つめていた。
いや、会社員なので毎年見てはいる。
年末になると人事から配られたり、社内システムからダウンロードできたりする、あの紙だ。
ただ、正直に言うと、これまでは中身をちゃんと見たことがなかった。
年収が書いてある。
なんか税金が引かれている。
以上。
俺にとって源泉徴収票とは、そのくらいの存在だった。
だが、今は違う。
昼休みの社員食堂。
俺の向かいには、氷室怜奈さんが座っている。
今日も姿勢がいい。
白いブラウスにネイビーのジャケット。
髪は低めのシニヨンにまとめられ、べっ甲柄のヘアクリップで留められている。細いフレームの眼鏡のせいで、いつもより少しだけ仕事モードが強い。
細い指がタブレットの画面を滑るたびに、俺の心臓も一緒に滑り落ちそうになる。
この人に告白して、振られて、家計簿アプリを入れられて、サブスクを切られた。
そこまでは、まだいい。
いや、よくはない。
だが今日は、さらに一段階、踏み込まれようとしている。
「高瀬くん」
「はい」
「副業収入の一覧を出して」
「……はい」
俺は観念して、ノートPCを開いた。
副業収入。
その言葉に、妙な罪悪感がある。
別に悪いことをしているわけじゃない。
会社の就業規則でも、副業は申請すれば可能だし、俺はちゃんと申請している。
小説の表紙デザイン。
個人依頼のイラスト。
たまに入るWeb小説のリワード。
同人イベントの手伝いで作ったロゴデザイン。
素材配布サイトのちょっとした売上。
全部、ひとつひとつは大きくない。
だから俺の中では、ずっと「お小遣い」だった。
それを氷室さんに言ったら、彼女は一秒で言った。
「お小遣いではなく、収入よ」
逃げ場がなかった。
「えっと、これが今年の分です」
俺はスプレッドシートを見せた。
氷室さんの目が、数字を追う。
静かだ。
だが、その沈黙が怖い。
国税庁より怖い。
いや、国税庁に睨まれたことはないが、今の俺には氷室さんの無言の方が圧倒的に怖い。
「高瀬くん」
「はい」
「これ、思っていたよりあるわね」
「いや、でも、月で見たらそんなには」
「年間で見るの」
「年間で見ると急に現実になりますね」
「現実だから」
氷室さんは、淡々と表の合計欄を指した。
俺は視線を逸らした。
「これ、申告が必要な可能性があるわ」
「ですよね……」
「知っていたの?」
「薄々は」
「薄々で放置していたの?」
「濃く考えると怖かったので」
「怖いから見ない、は一番よくない」
「はい」
完全に怒られている。
でも、不思議と嫌ではなかった。
氷室さんは俺を馬鹿にしているわけではない。
責めたいだけでもない。
ただ、現実を見ろ、と言っている。
この人はいつもそうだ。
俺が曖昧にしてきたものを、数字にして机の上に置いてくる。
「まず確認するわ。これはすべて振込?」
「ほとんどは振込です。たまに決済サービス経由もあります」
「明細は残っている?」
「たぶん」
「たぶん?」
「探せば」
「探して」
「今ですか」
「今できるものは今」
「はい……」
俺はクラウドストレージを開いた。
フォルダ名は、「副業っぽいやつ」。
氷室さんの眉が、わずかに動いた。
「そのフォルダ名は何?」
「分類に迷って」
「迷った結果、人格が出ているわね」
「人格まで見ないでください」
フォルダの中には、請求書、納品データ、依頼メール、振込明細のスクショが雑に突っ込まれている。
俺としては、保存しているだけ偉いと思っていた。
しかし氷室さんは、容赦なく言った。
「整理しましょう」
「今から?」
「今から」
「俺の昼休みが、税務研修になってる」
「必要な研修よ」
「会社でやってくれませんか」
「会社は、あなたの副業の確定申告までは面倒を見ないわ」
正論すぎる。
俺はカレーを食べる手を止め、ファイル名を直し始めた。
日付。
依頼主。
内容。
金額。
氷室さんが横からルールを決めていく。
「請求書は年別、月別。入金と紐づける」
「はい」
「経費に関係しそうな領収書も別フォルダ」
「はい」
「何を買ったのか、あとから見てわかるように」
「はい」
「高瀬くん」
「はい」
「返事だけよくてもだめよ」
「今、心まで見透かしました?」
「顔に出ている」
俺は思わず口を押さえた。
氷室さんは、俺の情緒にも監査を入れてくる。
「経費って、どこまで経費になります?」
俺は恐る恐る聞いた。
ここは大事だ。
なぜなら、俺の部屋には「経費になりそうなもの」がたくさんある。
「業務に必要で、説明できるもの」
「説明」
「そう。なぜそれが副業に必要だったか、第三者に聞かれて説明できるか」
「第三者」
「たとえば私に」
「急にハードルが上がった」
俺は頭の中で、部屋にあるものを並べた。
タブレット。
ペンタブ。
デザインソフト。
フォントサービス。
資料用の書籍。
コーヒーメーカー。
「コーヒーメーカーは?」
「なぜ?」
「創作中にコーヒーを飲むので」
「それは生活費寄りね」
「でも、創作に必要な集中力を」
「却下」
「早い」
「少なくとも、全額を副業の経費と言うのは無理があると思う」
「一部なら?」
「割合を説明できるなら検討の余地はあるかもしれないけれど、無理に入れない方がいいわ」
「厳しい」
「税金は願望では減らないの」
「名言が重い」
俺はメモに書いた。
税金は願望では減らない。
氷室さんがそれを見て、少しだけため息をついた。
「推しのアクリルスタンドは?」
「論外」
「資料として」
「何の?」
「キャラクターグッズのデザイン研究」
「それを本気で説明する覚悟がある?」
「ありません」
「なら、経費にしない」
俺は静かに頷いた。
推しは経費にならない。
人生の厳しさを知った。
「でも、このデザイン資料集は?」
「副業の表紙デザインに使っているなら、資料として説明できる可能性はあるわね」
「この有料フォントは?」
「案件で使っているなら、残す」
「このタブレットは?」
「副業と私用の両方で使うなら、按分を考える必要があるわ」
「按分」
「事業で使う割合と、私用で使う割合を分けること」
「言葉が急に税務っぽい」
「税務の話をしているから」
俺は頭を抱えた。
「俺、思ってたより何もわかってないですね」
「今わかったならいいわ」
氷室さんの声は、少しだけやわらかかった。
「副業を続けたいなら、数字も活動の一部よ」
「活動の一部」
「作品を作る。納品する。報酬を受け取る。必要なものにお金を使う。記録する。申告する。全部つながっている」
その言葉に、俺は少し黙った。
副業は、楽しかった。
会社の仕事とは違う手触りがある。
自分の名前で受ける依頼。自分の絵やデザインに、直接お金を払ってもらえる感覚。
でも俺は、その楽しい部分だけを見ていた。
お金が入ったら、ラッキー。
そのお金で欲しかったものを買う。
少し不安になったら、見なかったことにする。
そうやって、曖昧にしていた。
「俺、副業って言うほどちゃんとしてないと思ってました」
「収入が発生しているなら、ちゃんと向き合った方がいいわ」
「はい」
「高瀬くんの作るものは、価値があるからお金になっているんでしょう」
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