第4話 趣味と惰性は違うらしい
「すみません。答えなくていいです」
「別に」
氷室さんはまた魚に箸を入れた。
「本は買うわ。紙でも電子でも」
「どんな本ですか?」
「ビジネス書、会計、データ分析、たまに小説」
「小説読むんですか?」
「読むわよ」
「意外です」
「あなた、さっきから私を何だと思っているの」
「数字の神」
「人間よ」
氷室さんが少しだけ眉を寄せた。
その顔がおかしくて、俺は笑ってしまった。
「じゃあ、人間の氷室さんは、最近何を読みました?」
「……グルメ漫画」
「えっ、かわいい」
言った瞬間、空気が止まった。
しまった。
可愛いと思ったのは本当だけど、振られた相手に、何を言っているんだ。
俺は即座に頭を下げた。
「すみません。今のは口が勝手に」
「口の管理も必要そうね」
「家計簿アプリで管理できますか?」
「無理ね」
「ですよね」
氷室さんは呆れたように息を吐いた。
けれど、その耳が少し赤く見えたのは、食堂の照明のせいだろうか。
俺は見なかったことにした。
見たら、また期待してしまう。
「高瀬くん」
「はい」
「趣味のお金は、悪ではないわ」
氷室さんは静かに言った。
「仕事のための投資も、心を保つための娯楽も、必要な支出よ。全部削ればいいわけじゃない」
「はい」
「でも、惰性で払い続けているものと、気分の穴埋めで増えていくものは、あなたの未来を少しずつ削る」
その言葉は、妙に刺さった。
未来。
氷室さんは、俺の未来の話をする。
恋愛対象ではない、と言った人が。
俺の未来を、削らせないようにしようとしてくれている。
「氷室さん」
「何?」
「なんで、そこまでしてくれるんですか」
聞いてしまった。
唐揚げは残り一個。
昼休みはあと二十分。
周りには社員がいて、食器の音や話し声がしている。
なのに、その瞬間だけ、俺たちの席だけ静かになった気がした。
氷室さんはすぐには答えなかった。
水を一口飲み、俺ではなく、ノートPCの画面を見たまま言う。
「あなたは、仕事で必要なものを見極めるのが上手いでしょう」
「え?」
「UIでも、画面の中に何を残して何を削るか、判断が早い。ユーザーにとって必要な導線を残して、余計な装飾を削る」
「……はい」
「なのに、自分の生活になると、それができていない」
氷室さんが、ようやく俺を見た。
「もったいないと思ったの」
心臓が、変な音を立てた。
好きだから、ではない。
もちろん、そんな甘い言葉ではない。
でも、俺という人間を、仕事だけではなく生活まで含めて「もったいない」と言われたことが、なぜかものすごく嬉しかった。
「それ、褒めてます?」
「半分は」
「残り半分は?」
「注意喚起」
「ですよね」
俺は笑って、最後の唐揚げを食べた。
解約したサブスクは、昼休みのうちに七つ。
保留が三つ。
見直しが四つ。
月額は、最終的に一万二千円ほど減った。
年間で十四万円以上。
数字を見ると、急に現実感が出る。
「すごいですね。昼休みだけで十四万円浮いた」
「浮いたわけではないわ。これから失わずに済むだけ」
「言い方」
「大事なことよ」
「でも、ちょっと楽しいかも」
俺がそう言うと、氷室さんが意外そうに瞬きをした。
「楽しい?」
「はい。なんか、自分の生活のUIを整理してるみたいで」
言ってから、自分でもしっくりきた。
画面の中で、ユーザーが迷わないように導線を考える。
不要なボタンを消す。
優先度を決める。
大事なものが、ちゃんと目に入るようにする。
それと同じなのかもしれない。
俺の生活は、ずっとボタンだらけだった。
欲しいもの。
見たいもの。
買いたいもの。
登録したもの。
いつかやるつもりのもの。
画面いっぱいに並べすぎて、本当に押したいボタンがどれなのか、わからなくなっていた。
「氷室さん」
「何?」
「俺、ちゃんと整理したら、もう少しまともになれますかね」
「なれると思うわ」
即答だった。
まただ。
この人は、こういうところで迷わない。
「根拠あります?」
「あるわ」
「何ですか」
「今、あなたは七つ解約した」
「それだけ?」
「それだけでも、昨日までのあなたとは違う」
だめだ。
こういうことを言われると、本当にだめだ。
俺は振られたのに。
なのに、また、もっと好きになる。
「……氷室さん」
「何?」
「やっぱり俺、先輩のこと好きです」
言ってから、しまったと思った。
食堂。
昼休み。
サブスク解約直後。
何を二回目の告白みたいなことをしているのか。
氷室さんは表情を変えなかった。
ただ、ノートPCを閉じた。
「知っているわ」
「ですよね」
「でも、今はその話はしません」
「はい」
「まずは、あなたの固定費から」
「恋愛より固定費が優先されてる」
「恋愛は変動費になりやすいから」
「名言みたいに言わないでください」
氷室さんは立ち上がり、トレーを持った。
俺も慌てて立ち上がる。
食器返却口まで並んで歩く。
いつもより少しだけ、距離が近い気がした。
「高瀬くん」
「はい」
「今日の夜、また何か買いたくなったら、家計簿アプリを開いて」
「はい」
「それでも買いたかったら、一晩置いて」
「はい」
「それでも欲しかったら、理由を書いて」
「はい」
「それでも必要だと思ったら、相談して」
「氷室さんに?」
「私に」
俺は思わず立ち止まりそうになった。
「それ、迷惑じゃないですか」
「迷惑なら言わないわ」
「……ありがとうございます」
「ただし、深夜に長文で送らないで」
「やりそう」
「やめて」
「はい」
返却口にトレーを置いた後、氷室さんは腕時計を見た。
「午後の会議、十五分後ね」
「あ、はい。資料、出します」
「サブスクは削ったけど、仕事の質は削らないで」
「もちろんです」
「なら、午後もよろしく」
そう言って、氷室さんは先に歩いていった。
俺はその背中を見ながら、スマホを開く。
家計簿アプリ。
今日の支出。
社員食堂、六百二十円。
そして、メモ欄にこう書いた。
サブスク七つ解約。
氷室さんに褒められた。
いや、褒められたのかは微妙だ。
半分は注意喚起だった。
でも、俺にとっては十分だった。
ふと通知が鳴った。
通販サイトからだった。
先週カートから消したキーボードが、再入荷しました。
今なら五パーセントオフ。
俺の指が、一瞬だけ止まる。
白とグレーの、最高にかわいいキーボード。
静音リニア軸。
専用パームレスト付き。
欲しい。
めちゃくちゃ欲しい。
俺は深呼吸して、家計簿アプリを開いた。
今日のメモを見る。
サブスク七つ解約。
氷室さんに褒められた。
「……一晩置くか」
俺は通販サイトを閉じた。
たぶん、昨日までの俺なら買っていた。
けれど今日は、買わなかった。
それだけで少し、氷室さんの隣に立てる自分に近づいた気がした。
午後の会議室に入ると、氷室さんがすでに席についていた。
俺と目が合う。
彼女は何も言わない。
ただ、俺のスマホ画面をちらりと見て、通販サイトが開いていないことを確認したようだった。
そして、ほんの少しだけ頷いた。
それだけ。
たったそれだけで、俺は今日一日、かなり頑張れる気がした。
恋愛対象外。
固定費監査対象。
それが、今の俺の立ち位置だ。
だが、昨日までよりは、少しだけマシになっている。
たぶん。
少なくとも、月額一万二千円分くらいは。
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