第10話 医療費の領収書を回収された
薬局で薬を受け取り、タクシーで部屋まで戻る。
俺は玄関先で頭を下げた。
「本当にありがとうございました。ここからは寝ます」
「お粥、温められる?」
「電子レンジの操作はできます」
「食べたら薬を飲んで」
「はい」
「水分も」
「はい」
「病院と薬局の領収書は?」
俺は固まった。
「え?」
「領収書」
「……あ」
ポケットから、くしゃっとした紙を取り出す。
病院の領収書。薬局の領収書。
氷室さんはそれを見て、表情を変えずに言った。
「捨てないで」
「今、その話します?」
「今しないと、あなたは捨てるでしょう」
「捨てませんよ」
「本当に?」
「……たぶん」
「たぶんは禁止」
氷室さんは俺の手から領収書を受け取った。
そして、自分のバッグから小さなクリアファイルを取り出した。
透明で、ラベルが貼ってある。
医療費。
「用意が良すぎる」
「ついでに買ったの」
「ついでの精度が高い」
「今年分はここに入れて。医療費控除の対象になるかどうかは、金額や条件次第だけど、まず残しておかないと確認もできないわ」
「風邪の時くらい、税金の話を休みません?」
「休んでいるわ。今は領収書を保護しているだけ」
「領収書の保護者」
「あなたよりは私の方が向いていると思う」
何も言えない。
俺はおとなしく、領収書がファイルに収められるのを見た。
それから氷室さんは、玄関に置いた紙袋を中に入れてくれた。
「じゃあ、私は戻るわ」
「会社に?」
「午後は在宅に切り替えた」
「え」
「午前中に必要な連絡は済ませたから」
俺は思わず顔を上げた。
「俺のせいですか」
「私の判断よ」
「でも」
「高瀬くん」
氷室さんが、静かに俺の言葉を止めた。
「人に頼ることと、人に迷惑をかけることは同じではないわ」
その言葉に、胸が詰まった。
熱のせいかもしれない。
喉が痛いせいかもしれない。
でも、目の奥が少し熱くなった。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
氷室さんはそう言って、ドアの外へ出ようとした。
その時、俺の体がふらついた。
ほんの少しだった。
でも、氷室さんはすぐに気づいた。
「高瀬くん」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないわ」
手が伸びてくる。
氷室さんの手が、俺の腕を支えた。
冷たい指先だった。
なのに、その手が触れたところだけ、ひどく熱い。
「ベッドまで戻って」
「はい……」
「ひとりで歩ける?」
「歩けます」
「信用できない」
「信用の残高が足りない」
「そうね」
氷室さんは靴を脱ぐか一瞬迷ったようだったが、結局「失礼します」と小さく言って部屋に入った。
俺は頭のどこかで、部屋が散らかっていることに絶望した。
だが、体はそれどころではなかった。
寝室まで支えられ、布団に戻される。
その瞬間、俺は朦朧とした頭でひとつだけ思い出した。
昨夜、寝落ちする直前に開いていたタブレット。
画面には、年上お姉さん系の癒やしボイス特集。
……閉じた。
たぶん、閉じた。
いや、閉じたはずだ。
もし氷室さんに見られたら、俺は風邪ではなく社会的に死ぬ。
しかもよりによって、目の前にいるのが本物の年上お姉さんなのだから、罪が重すぎる。
氷室さんは俺の額に手を当てた。
冷たい。
気持ちいい。
「熱いわね」
「氷室さんの手、冷たくて気持ちいいです」
「そう」
「ずっと置いといてください」
「病人の発言として処理するわ」
「本音です」
「なおさら処理に困るわ」
氷室さんの声が、少しだけ揺れた気がした。
俺は目を開けた。
ぼんやりした視界の中で、氷室さんが俺を見下ろしている。
いつもより近い。
仕事中の、隙のない顔ではない。
少し困ったような、でも放っておけないような顔。
「氷室さん」
「何?」
「俺のこと、好きじゃないのに、なんでここまでしてくれるんですか」
言ってしまった。
熱のせいだ。
絶対に熱のせいだ。
シラフなら聞けなかった。
氷室さんは黙った。
俺はその沈黙が怖くなって、目を閉じた。
「すみません。今のなしで」
「高瀬くん」
「はい」
「好きじゃなかったら、ここまで来ないわよ」
え。
今、何と言った。
俺は目を開けようとした。
だが、まぶたが重い。
頭がぼんやりする。
声も、遠い。
「……え、今の」
「薬を飲んだら寝て」
「氷室さん、今」
「お粥、食べられそう?」
「待って、今すごい大事な」
「病人は寝なさい」
その後の記憶は、かなり曖昧だった。
氷室さんがキッチンでお粥を温めてくれたこと。
俺が半分だけ食べたこと。
薬を飲まされたこと。
冷却シートを貼られたこと。
枕元にスポーツドリンクと体温計が置かれたこと。
そして、医療費のクリアファイルが、なぜかデスクの一番目立つ場所に置かれたこと。
次に目を覚ました時、部屋は薄暗かった。
夕方だった。
熱は少し下がっていた。
氷室さんの姿はなかった。
代わりに、枕元にメモが置いてある。
『薬は夕食後にもう一度。水分を取ること。明日も熱が下がらなければ再受診。領収書は医療費ファイルへ』
最後だけ、妙に現実的だった。
俺は掠れた声で笑った。
その下に、もう一行。
『部屋は、次に元気な時に片付けましょう。今日は寝ること』
次に。
次がある。
その言葉に、胸が変なふうに温かくなる。
俺はメモを見つめながら、昼間のことを思い出そうとした。
『好きじゃなかったら、ここまで来ないわよ』
あれは夢だったのだろうか。
熱のせいで都合よく聞いた幻聴かもしれない。
でも、額に触れた氷室さんの手の冷たさは、まだ覚えている。
俺はスマホを取り、家計簿アプリを開いた。
今日の支出。
内科。
薬局。
タクシー。
メモ欄に、少し迷ってから書く。
医療費の領収書は捨てない。
人に頼ることと、迷惑をかけることは同じではない。
氷室さんの手は冷たい。
最後の一文を消そうか迷って、結局そのままにした。
それから、氷室さんにメッセージを送る。
『今日はありがとうございました。薬飲んで寝ます。領収書は捨てません』
すぐに既読がついた。
『それでいいです。お大事に』
いつも通りの短い文。
でも、少ししてからもう一通来た。
『明日、食べられるものがなければ連絡して』
俺は布団の中で、スマホを抱えた。
振られた。
恋愛対象ではないと言われた。
それでも氷室さんは、俺の熱を測らせ、病院を調べ、薬を飲ませ、領収書を回収し、明日の食事まで気にしてくれる。
期待するな。
そう思う。
でも、期待するなという方が無理だった。
俺は目を閉じる。
体はまだだるい。
喉も痛い。
でも、胸の奥だけは、少しだけ元気になっていた。
たぶん風邪より厄介なものを、俺はまだ全然治せていない。
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