第11話 ふるさと納税で喧嘩する
風邪から復活した翌週、俺はひとつ大きな学びを得た。
氷室怜奈さんは、病人には少しだけ優しい。
しかし、病み上がりの浪費家には容赦がない。
「高瀬くん」
「はい」
「十二月は、ふるさと納税の確認をします」
昼休みの社員食堂。
俺の前には、親子丼。
向かいには氷室さん。
そしてテーブルの上には、俺のノートPC。
風邪を引いた日、氷室さんは家まで来てくれた。
病院を調べ、薬局まで付き添い、お粥を温め、医療費の領収書を回収して帰った。
しかも俺は、熱でぼんやりした状態で聞いてしまったのだ。
『好きじゃなかったら、ここまで来ないわよ』
あれが本当に氷室さんの言葉だったのか。
それとも、発熱した俺の願望が生んだ幻聴だったのか。
確認したい。
だが、確認できない。
なぜなら本人が、今日もあまりにも通常運転だからだ。
「ふるさと納税って、今年中にやるやつですよね」
「そう。年内に寄附した分が、その年の控除対象になるから。あなたの場合は副業の確定申告もあるから、ワンストップ特例ではなく、確定申告に寄附金控除を入れる前提で考えた方がいいわ」
「すでに言葉が難しい」
「難しいまま放置しない」
「はい」
この人は、熱で弱った俺の額に手を置いた人と同一人物なのだろうか。
同一人物だ。
だから困る。
「まず、控除上限額の目安を確認します」
「上限」
「収入や家族構成によって変わるから、シミュレーションでざっくり見る。正確なところは最終的に確認が必要だけれど」
「なるほど」
「返礼品に釣られて上限を超えすぎると、ただの高い買い物になるから注意して」
「返礼品に釣られる人がいるんですか」
氷室さんが、無言で俺を見た。
「……俺ですか?」
「今からなる可能性が高いわ」
「信用がない」
「過去実績がある」
俺は親子丼を一口食べた。
出汁がうまい。
だが、ふるさと納税という単語の前では、親子丼の味すら少し遠くなる。
氷室さんはサイトを開き、シミュレーション画面を見せた。
年収。
副業収入の見込み。
社会保険料。
控除。
いくつかの数字を入れると、目安額が表示される。
「おお」
俺は思わず声を上げた。
「思ったより選べそうですね」
「目安だから、余裕を見てね」
「はい」
「そして、必要なものを選ぶこと」
「必要なもの」
俺は返礼品の検索欄に、勢いよく打ち込んだ。
肉。
画面いっぱいに、美しい肉が並ぶ。
ステーキ。すき焼き。焼肉。ローストビーフ。ハンバーグ。
「見てください、氷室さん。夢があります」
「冷凍庫に入るの?」
「夢に冷凍庫の容量を持ち込まないでください」
「現実を持ち込まないと、届いた日に詰むわよ」
「確かに」
俺は次に、海鮮を検索した。
カニ。いくら。ホタテ。うなぎ。
「これ、よくないですか。年末感あります」
「調理するの?」
「……します」
「本当に?」
「YouTube見ながら」
「不安ね」
「じゃあ、スイーツ」
ケーキ、チーズケーキ、プリン、アイス。
「冷凍庫に入るの?」
「また冷凍庫!」
「冷凍品を連続で選んでいるからよ」
俺は少しむくれながら、今度はコーヒー豆を検索した。
すると氷室さんの表情が、ほんのわずかに緩んだ気がした。
「コーヒーは、あなた飲むでしょう」
「飲みます」
「量と保存方法を見て、飲み切れるならいいんじゃない」
「え、今のは通るんですか」
「使うものなら」
使うもの。
なるほど。
つまり、ちゃんと使うなら許される。
そう理解した俺は、次に検索欄へ打ち込んだ。
ゲーミングチェア。
氷室さんが、静かにこちらを見た。
「高瀬くん」
「はい」
「なぜ?」
「座ります」
「今の椅子は?」
「あります」
「壊れている?」
「壊れてはいません」
「却下」
「ふるさと納税にも監査が入るとは」
「あなたの選択には常に監査が必要よ」
「愛が重い」
口が滑った。
氷室さんの指が止まった。
俺も固まった。
社員食堂のざわめきだけが、やけに大きく聞こえる。
「あの、今のは」
「監査上の発言として処理するわ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
処理された。
だが、氷室さんの耳が少し赤い。
それだけで俺は、今日一日分くらい生きられそうだった。
「候補を出します」
氷室さんは、自分のタブレットをこちらに向けた。
そこには、米、無洗米、レトルトのスープ、冷凍惣菜、トイレットペーパー、ティッシュ、洗剤、タオルが並んでいた。
「……生活」
「生活よ」
「生活感がすごい」
「返礼品を生活に使って何が悪いの」
「いや、悪くはないんですけど、こう、せっかくならテンションが上がるものを」
「日用品の固定費が下がれば、その分ほかに回せるでしょう」
「それはそうですけど」
「お米なら確実に食べる。ティッシュも使う。洗剤も使う。冷凍惣菜は忙しい時に助かる」
「でも、なんか、ふるさと納税なのに現実的すぎません?」
言った瞬間、氷室さんの表情が変わった。
本当に少しだけ。
普段なら見逃したかもしれない。
でも、この数週間、俺はこの人の小さな変化を見すぎている。
今のは、違う。
いつもの呆れではない。
少し、痛そうな顔だった。
「現実的だと、だめなの?」
声が冷えた。
俺はすぐに、まずいと思った。
「いや、だめじゃないです。ただ、なんかこう、夢がないっていうか」
「夢」
氷室さんは、静かに繰り返した。
「毎日食べるお米や、なくなったら困る日用品を選ぶことは、そんなに夢がない?」
「そういう意味じゃ」
「生活を支えるものを軽く見る人は、いざという時に生活を壊すわ」
鋭かった。
でも、怒鳴られたわけではない。
だから余計に、深く刺さった。
氷室さんはすぐに視線を落とした。
「ごめんなさい。少し言い過ぎた」
「いえ、俺が」
「仕事に戻りましょう」
「あ、はい」
そのまま、昼休みの空気は少しだけ固くなった。
返礼品の候補は、米とコーヒー豆と冷凍惣菜に絞られた。
だが、氷室さんはそれ以上踏み込まなかった。
俺も軽口を叩けなかった。
午後の会議でも、氷室さんはいつも通りだった。
予算を見る。
数字を見る。
仕様変更の影響を確認する。
無駄な工数には冷静に突っ込む。
けれど俺は、昼休みの言葉がずっと頭から離れなかった。
生活を支えるものを軽く見る人は、いざという時に生活を壊す。
あれは、一般論ではない。
たぶん。
氷室さんの中に、何かある。
元カレなのか、家族なのか、昔の出来事なのかはわからない。
でも、あの人はただ節約が好きなわけじゃない。
お金に厳しいのも、生活に厳しいのも、何か理由がある。
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