第12話 生活を軽く見ない
その日の夕方。
俺は退勤前に、給湯スペースで氷室さんを見つけた。
彼女はひとりでマグカップを洗っていた。
「氷室さん」
「何?」
いつもの声だった。
でも、距離は少し遠い。
「昼のこと、すみませんでした」
俺は頭を下げた。
氷室さんが手を止める。
「生活感がどうとか、夢がないとか、俺、失礼でした」
「……気にしなくていいわ」
「気にします」
自分でも、少し驚くくらいはっきり言えた。
「俺、今まで生活をちゃんと見てなかったから、たぶん簡単にそういうこと言えるんだと思います」
「高瀬くん」
「お米もティッシュも洗剤も、なくなったら普通に困るのに。そういうのを誰かがちゃんと考えてるから、生活って回ってるんですよね」
言いながら、なんとなく子どもの頃のことを思い出した。
冷蔵庫に牛乳があること。
洗面所に新しい歯磨き粉があること。
トイレットペーパーが切れたら補充されていること。
そういうものを、俺はずっと当たり前だと思っていた。
今、一人暮らしをしているのに、まだその感覚が抜けていなかったのかもしれない。
「俺、欲しいものを選ぶのは得意なんですけど、必要なものを選ぶのは下手です」
氷室さんは、何も言わなかった。
だから俺は、続けた。
「でも、必要なものをちゃんと選べる人になりたいです」
氷室さんが、ゆっくりとこちらを見た。
「どうして?」
その質問の意味を、俺は少し考えた。
先輩に褒められたいから。
先輩に好きになってほしいから。
それも本当だ。
でも、それだけではない気がした。
「自分の生活をちゃんとしたいから」
俺は言った。
「あと、いつか誰かと一緒に暮らすことがあった時に、その人に全部背負わせたくないから」
言ってから、急に恥ずかしくなった。
重い。
振られた相手に言うには、かなり重い。
だが、氷室さんは笑わなかった。
困った顔もしなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
「そう」
小さな声だった。
「それなら、いいと思う」
「はい」
「昼の私も、少し大人げなかったわ」
「そんなこと」
「あるわ」
氷室さんは、洗ったマグカップを布巾で拭いた。
「昔、生活を軽く見る人が近くにいたの」
俺は息を止めた。
氷室さんが、自分から話し始めた。
「夢があると言って、欲しいものを買う。必要な支払いを後回しにする。いつか何とかなると言って、今を整えない。そういう人」
「……」
「私は、その人の夢が嫌いだったわけじゃない。でも、生活を壊しながら語られる夢は、だんだん怖くなる」
声は静かだった。
でも、その静けさの奥に、古い傷みたいなものが見えた。
「だから、少し過剰に反応した。ごめんなさい」
「謝らないでください」
俺はすぐに言った。
「俺、聞けてよかったです」
「楽しい話ではないわ」
「でも、大事な話です」
氷室さんが俺を見る。
俺は、ちゃんと目を逸らさなかった。
「俺は、その人とは違いたいです」
言ってから、心臓が大きく鳴った。
それはほとんど、告白の続きだった。
氷室さんにも、たぶん伝わった。
彼女は何も言わなかった。
ただ、少しだけ困ったように眉を下げた。
「高瀬くんは」
「はい」
「そういうところが、少し危ないわね」
「危ない?」
「まっすぐ言いすぎる」
「すみません」
「謝ることではないけれど」
氷室さんはマグカップを片付け、俺の横を通り過ぎようとした。
その時、俺は思わず声をかけた。
「氷室さん」
「何?」
「返礼品、米にします」
彼女が振り返る。
「あと、コーヒー豆も。俺が飲むやつですけど、よかったら会社で少し持ってきます」
「いいの?」
「はい。先輩も飲めるなら」
「私はブラックなら」
「じゃあ、先輩が飲めるやつ選びます」
「自分のふるさと納税でしょう」
「でも、どうせなら一緒に飲める方がいいので」
氷室さんは、一瞬だけ黙った。
そして、小さく息を吐く。
「……そういうところよ」
「え、また危ないですか」
「少し」
「でも嫌ですか」
聞いてしまった。
氷室さんはすぐには答えなかった。
給湯スペースの蛍光灯が、彼女の横顔を白く照らしている。
「嫌ではないわ」
その夜、俺は家でふるさと納税の申し込みをした。
米。
コーヒー豆。
それから、少量の冷凍惣菜。
肉もカニもスイーツも、まだ少し未練はあった。
だが、冷凍庫の容量を確認し、家計簿アプリを開き、控除上限額に余裕を持たせて、ちゃんと選んだ。
最後に、申し込み完了画面をスクショして、氷室さんに送る。
『米とコーヒー豆にしました。冷凍庫も確認済みです』
すぐに既読がついた。
『よくできました』
よくできました。
俺はスマホを握りしめ、ソファの上でひっくり返った。
この人は本当に、たった一文で俺をだめにする。
少しして、もう一通来た。
『コーヒー、楽しみにしています』
俺はしばらく、その文章を見つめた。
一緒に飲める。
たぶん、会社の給湯スペースで。
紙コップかマグカップで。
それだけのことだ。
それだけのことなのに、俺には返礼品のどんな高級肉よりも、ずっと贅沢に思えた。
家計簿アプリを開く。
今日のメモ欄に、俺はこう書いた。
ふるさと納税は、夢だけじゃなく生活を選ぶもの。
生活を軽く見ない。
氷室さんは、ブラックコーヒーが飲める。
最後の一文を見て、また少し笑ってしまった。
好きな人の好みがひとつ増える。
それは、どんな返礼品よりも嬉しい。
そして俺はたぶん、また少しだけ、必要なものを選べる人間に近づいた。
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