第2話 振られた直後に十二万円使いかけた
背後から声がして、俺はスマホを落としかけた。
振り返ると、氷室さんが立っていた。
片手にノートPC用のバッグを持ち、もう片方の手には俺の社員証がある。
「デスクに忘れていたわ」
「あ、ありがとうございます」
受け取ろうとして、俺は気づいた。
スマホの画面が、氷室さんに丸見えだった。
カート。
合計金額。
購入ボタン。
すべてが、ありのままに晒されている。
氷室さんの視線が、画面から俺の顔へ上がった。
「高瀬くん」
「はい」
「失恋直後に、十二万五千八百円の買い物をしようとしているの?」
「違います」
「違うの?」
「必要経費です」
「何に必要なの?」
「人生に」
「却下」
即答だった。
俺は思わずスマホを胸に抱えた。
「待ってください。これは俺の心の救済であり、創作環境の改善であり、明日を生きるための」
「感情の穴埋めを、全部消費で処理しようとしているだけよ」
「言い方が鋭利!」
「それに、そのキーボード、先月も似たようなものを買っていなかった?」
「違います。あれは赤軸で、これは静音リニア軸です」
「用途は?」
「打つ」
「同じね」
「違うんです。打鍵感が」
「高瀬くん」
氷室さんが、社員証を俺に差し出されて受け取る。
だが彼女は、そのまま俺を見上げた。
正確には、俺の方が少し背が高いので見上げる形になるのだが、圧は完全に氷室さんの方が上だった。
「あなたを恋人にする勇気は、今の私にはないわ」
「追い討ちがすごいですね」
「理由を言っているの」
「理由?」
「失恋直後に十二万円を溶かそうとする人と、安心して付き合えると思う?」
何も言えなかった。
ぐうの音も出ない、という言葉はこういう時に使うのだろう。
「仕事では優秀なのに、私生活のお金の扱いが雑すぎる」
「……そこまでですか?」
「たぶん、あなたが思っているよりずっと」
「俺、借金はないですよ」
「借金がないことは、健全の証明にはならないわ」
氷室さんはバッグから自分のスマホを取り出した。
「家計簿アプリを入れて」
「え?」
「今」
「今?」
「今よ」
振られた。
そして、家計簿アプリを入れろと言われている。
人生でこんな夜があるだろうか。
「えっと、氷室さん」
「何?」
「俺、さっき告白して振られたんですけど」
「知っているわ。私が振ったんだもの」
「普通、もう少し距離を置くものでは?」
「距離を置いたら、あなたはそのキーボードを買うでしょう」
「買いますね」
「だから置かない」
なんだそれ。
優しいのか、厳しいのか、わからない。
いや、厳しい。確実に厳しい。
でも、俺の購入ボタンに伸びかけた指は、たしかに止まっている。
俺は観念して、アプリストアを開いた。
「どれですか」
「これ」
「レビュー高いですね」
「無料版で十分。まずは一か月、全部記録して」
「全部?」
「全部」
「コンビニのコーヒーも?」
「もちろん」
「ゲームの課金パスも?」
「当然」
「推しのグッズも?」
「絶対に」
「人権がない」
「浪費に人権を与えすぎた結果が今よ」
ひどい。
でも、正論だった。
アプリをインストールし、初期設定をする。
収入、固定費、ざっくりした予算。
氷室さんは横から無駄のない指示を出す。
その距離が近い。
肩が触れそうで、触れない。
振られたばかりなのに、俺の心臓は懲りずに騒いでいる。
「高瀬くん、聞いてる?」
「聞いてます」
「今、別のこと考えていたでしょう」
「先輩、すごいですね」
「何が?」
「俺のこと、めちゃくちゃ見てる」
言った瞬間、氷室さんの指が止まった。
ほんの一秒。
本当に一秒だけ。
けれど、その一秒で、俺の胸はまたどうしようもなく期待してしまう。
氷室さんはすぐに表情を戻した。
「プロジェクトメンバーのリスク管理も仕事のうちよ」
「俺、リスク扱いなんですか」
「現状は」
「現状は、ってことは改善の余地あります?」
「あると思うから、こうしているの」
それは、恋愛の話ではない。
わかっている。
でも、突き放すだけなら、こんなことはしないはずだ。
「来週の昼休み、一時間、空けておいて」
「え」
「支出を見ます。サブスクも全部」
「全部?」
「全部」
「それ、ほぼ公開処刑ですよ」
「大丈夫。処刑ではなく監査よ」
「もっと怖いんですけど」
氷室さんはスマホをバッグにしまい、改札の方へ歩き出した。
俺も慌てて後を追う。
「氷室さん」
「何?」
「これ、俺、振られたんですよね?」
「そうね」
「なのに来週、昼休みに会うんですよね?」
「そうね」
「どういう関係ですか、これ」
氷室さんは少しだけ考えた。
それから、いつもの冷静な顔で言った。
「恋愛対象外の後輩と、その後輩の資産管理を一時的に引き受けた先輩」
「情報量が多い」
「嫌ならやめてもいいわ」
その言葉に、俺はすぐ答えられなかった。
嫌ではない。
まったく嫌ではない。
むしろ、振られたはずなのに、来週も氷室さんと会う理由ができたことに、どうしようもなく救われている。
だから俺は、スマホのカートを開いた。
キーボードとスニーカー。
購入ボタンではなく、削除ボタンを押す。
氷室さんが、少しだけ目を見開いた。
「……消したの?」
「はい」
「本当に?」
「本当に。まあ、また欲しくなるかもしれませんけど」
「その時は?」
「家計簿を見ます」
「それでも欲しかったら?」
「先輩に相談します」
氷室さんは、ほんの少しだけ笑った。
たったそれだけで、十二万五千八百円分の買い物より、ずっと心が満たされてしまった。
俺は本当に単純だと思う。
でも、たぶん悪くない。
改札を抜ける直前、氷室さんが振り返った。
「高瀬くん」
「はい」
「あなたの感情まで管理するつもりはないわ」
「……はい」
「でも、あなたが自分の人生を雑に扱うのは、見過ごせない」
それだけ言って、氷室さんはホームへ向かって歩いていった。
俺はその背中を見送る。
振られた。
はっきり振られた。
恋愛対象ではない、と言われた。
なのに、俺のスマホには家計簿アプリが入り、来週の昼休みには支出監査の予定が入った。
何だこれ。
何なんだ、この関係は。
わからない。
わからないけど、ひとつだけ確かなことがある。
俺は今日、告白して振られた。
そして、クールな先輩に資産管理を始められた。
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