第1話 告白したら振られたのに、家計簿アプリを入れられる
二十三時四十七分。
ゲーム会社のオフィスは、昼間の喧騒が嘘みたいに静まり返っていた。
壁際の観葉植物は影みたいに沈み、デスクの島に残っているのは、俺と、斜め向かいの席に座る氷室怜奈さんだけ。
モニターの光に照らされた横顔は、今日も無駄なく整っている。
黒髪は細いシルバーのバレッタで低い位置に留められていて、白いブラウスに細身のジャケットという装いも、彼女らしく無駄がなかった。
感情を表に出さない涼しげな目元。資料をめくる指先は、定規で測ったみたいに正確だ。
氷室さんは二十八歳。
事業管理部所属で、プロジェクトの予算、売上見込み、外注費、開発工数、KPI、その他もろもろ、俺たちクリエイターが見たくない数字のすべてを見る人だ。
社内では、こう呼ばれている。
予算の氷室。
彼女のレビューを通ると、どんな夢いっぱいの企画書も、現実という名の氷水を浴びせられる。
だが、俺は知っている。
氷室さんは、ただ冷たい人じゃない。
無駄は削る。でも、必要なものは残す。
締めるところは締める。でも、開発側の言い分もちゃんと聞く。
俺が担当したUI改修案に、ほかの部署が「そこまでやる必要ある?」と言った時も、氷室さんだけは数字を見せて言ってくれた。
「高瀬くんの案は、初回離脱を減らす可能性があります。検証する価値はあると思います」
その一言で、俺の案は生き残った。
それ以来、たぶん俺は、ずっとこの人が好きだった。
たぶん、ではない。
好きだ。
高瀬湊、二十六歳。
職業、ゲーム会社のUIデザイナー。
身長百七十八センチ。顔は、まあ、悪くない方だと思う。
学生時代からそこそこモテたし、社内でもたまに「高瀬くんって黙ってると雰囲気あるよね」と言われる。
ただし、黙っていられる時間は短い。
仕事はできる。納期も守る。
画面設計も、情報整理も、ユーザー導線もわかっている。
副業で小説の表紙デザインやイラスト依頼を受けることもあるし、趣味で書いているWeb小説から、少しだけ収益が入る月もある。
けれど私生活は雑だった。
ストレスが溜まると、買う。
ガジェットを買う。
インテリアを買う。
豆から挽けるコーヒーメーカーを買う。
推しグッズを買う。
限定スニーカーを買う。
使い道の定まらない高級キーボードを買う。
俺の口癖は、「これは投資です」。
だいたい、浪費だった。
「高瀬くん」
ふいに呼ばれて、肩が跳ねた。
「はいっ」
「そのボタン、色弱対応のチェックは終わってる?」
「あ、はい。コントラスト比も見ました。明日の朝、実機確認だけして出します」
「そう。なら、今日はもう帰った方がいいわ」
「氷室さんこそ、まだ残るんですか?」
「私はこの資料を送ったら帰る」
「終電、大丈夫です?」
「大丈夫よ。あなたは?」
「俺も大丈夫です」
嘘だった。
終電は大丈夫だが、俺の心臓が大丈夫じゃない。
今日こそ言う。
そう決めていた。
なぜ今日なのかは、自分でもよくわからない。
でも、今週はずっと残業続きで、氷室さんと二人きりになる時間が多かった。
彼女が差し入れてくれたブラックコーヒーを飲みながら、同じ資料を覗き込む距離が近かった。
何度も、今言え、と思った。
何度も、いや無理だろ、と思った。
だが、今日はもう金曜日だ。
このまま週末に入ったら、俺は絶対に考えすぎて死ぬ。
そして死んだ勢いで、八万円くらいの何かを買う。
よし。
俺は椅子から立ち上がった。
「あの、氷室さん」
「何?」
「今、少しだけいいですか」
氷室さんがキーボードを打つ手を止めた。
たったそれだけなのに、胸が詰まる。
「業務の話?」
「……業務では、ないです」
氷室さんの目が、少しだけ細くなる。
警戒された。
そりゃそうだ。深夜のオフィスで、年下の後輩男性が「業務ではない話」を始めようとしている。
状況だけ見ると、最悪に近い。
俺は慌てて一歩下がった。
「あ、変な意味じゃなくて。いや、変な意味ではあるんですけど、変なことはしません」
「もう少し整理して話して」
「はい」
深呼吸する。
大丈夫だ。
言うだけだ。
仕事のプレゼンよりずっと短い。
三秒で終わる。
ユーザーの離脱率改善より簡単だ。
いや、簡単ではない。全然簡単ではない。
それでも俺は、氷室さんを見た。
「好きです」
言った。
言ってしまった。
静寂が落ちる。
空調の音が、やけに大きく聞こえた。
氷室さんは目を逸らさなかった。
驚いたようでもなく、困ったようでもなく、ただ静かに俺を見ている。
その沈黙が、答えみたいだった。
「高瀬くん」
「はい」
「気持ちは、ありがたいわ」
あ、終わった。
この始まり方は、終わるやつだ。
「でも、あなたを恋愛対象としては見ていない」
知っていた。
たぶん、知っていた。
氷室さんは俺に優しい時がある。
でもその優しさは、部下や後輩に向けるものだ。
仕事のできる若手を気にかけてくれているだけだ。
わかっていた。
わかっていたのに、いざ言葉にされると、普通に心臓が痛い。
「……ですよね」
俺は笑おうとしたけど、たぶん、失敗した。
「すみません。困らせるつもりじゃなかったんですけど」
「困ってはいないわ」
「いや、今の間は確実に困ってました」
「驚いただけ」
「それ、優しさで言ってます?」
「事実よ」
氷室さんは淡々と言う。
その淡々とした声音が、今は少し救いだった。
妙に気を遣われたら、俺はもっと惨めになっていたと思う。
「高瀬くんは、仕事はできるし、発想もいい。人の感情を読むのも上手い。UIデザイナーとして、私はあなたを評価している」
「ありがとうございます。今聞くと、社内評価面談みたいですね」
「そうね」
「振られた直後に人事評価されることあります?」
「普通はないわ」
氷室さんは、ほんの少しだけ目元を緩めた。
その一瞬で、また好きになりそうになる。
いや、もう好きなのだ。これ以上ないくらい。
振られたくらいで、すぐに切り替えることができる感情ではない。
「帰ります」
俺は鞄を掴んだ。
「本当にすみませんでした。月曜から普通にします。普通の高瀬で来ます」
「普通の高瀬くんって、どの状態?」
「ちょっと騒がしいけど仕事はする高瀬です」
「それなら助かるわ」
「じゃあ、お疲れさまでした」
俺は頭を下げ、逃げるようにデスクを離れた。
エレベーターホールまで来たところで、スマホを取り出す。
とにかく何かを見ていないと無理だった。
胸の中に空いた穴から、冷たい風が吹いている。
こういう時、俺は買い物をする。
買い物はいい。
決済ボタンを押すと、一瞬だけ世界が前に進んだ気がする。
欲しいものが届く予定があるだけで、明日を生きる理由ができる。
俺はブックマークしていた通販サイトを開いた。
新作のメカニカルキーボード。
アルミ削り出し筐体。
静音軸。
白とグレーの絶妙な配色。
キーキャップもかわいい。
しかも数量限定。
今なら専用パームレスト付き。
価格、八万六千円。
「……これは」
俺は呟いた。
「必要経費だな」
副業でも使う。
デザインでも使う。
文章も書く。
つまり仕事道具だ。
仕事道具なら投資。
投資なら買っていい。
カートに入れる。
ついでに、前から気になっていた限定スニーカーも見る。
グレーに蛍光イエローの差し色。
ゲーム系イベントにも履いていけそうだ。
価格、三万九千八百円。
これも投資だ。
外見への投資。
歩行体験への投資。
気分への投資。
カートに入れる。
合計十二万五千八百円。
よし。
失恋にしては、まだ安い。
「何が、よし、なの?」
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