表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】告白したら振られたのに、クールな先輩が俺の資産管理を始めた  作者: 木風


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/20

第19話 確定申告が終わった夜

 二月の夜は、思っていたより静かだった。


 エアコンの低い音。

 ローテーブルの上に並んだ書類。

 ノートPCの白い画面。

 マグカップに入れたコーヒーの湯気。


 そして、俺の隣で淡々と数字を確認している氷室怜奈さん。

 クリスマスイブに手袋を贈ってから、二か月近くが経った。

 俺たちは、まだ付き合っていない。

 だが、関係は明らかに変わっていた。


 氷室さんは、俺が贈ったチャコールグレーの手袋を毎日のように使ってくれている。

 俺は、氷室さんにもらったレザーの領収書入れを鞄に入れて持ち歩いている。

 レシートをくしゃくしゃのままポケットに突っ込む回数は減った。


 サブスクも増やしていない。

 限定スニーカーの通知も切った。

 生活防衛資金は、まだ目標額には遠いけれど、毎月の積立設定をした。

 NISAも、無理のない金額で始めた。


 そして今日は、いよいよ確定申告を終わらせる日だった。


「高瀬くん」

「はい」

「この支払調書、入力済み?」

「済みです」

「源泉徴収税額も?」

「入れました」

「寄附金受領証明書は?」

「ふるさと納税フォルダに入ってます。入力も済みです」

「医療費は?」

「領収書を全部足しました。でも、今回は控除の対象になるほどの額じゃなさそうです」

「確認できたならいいわ。残しておく習慣が大事だから」

「はい」


 返事をしながら、俺は少しだけ感動していた。


 俺が。

 あの俺が。

 領収書を分類し、支払調書を確認し、ふるさと納税を入力し、医療費を集計している。


 数か月前の自分に見せたら、「誰?」と言われると思う。

 あの頃の俺は、失恋直後に八万六千円のキーボードと三万九千八百円のスニーカーを買おうとしていた。

 それが今はどうだ。

 クリスマスプレゼントのレシートすら、きれいに伸ばしてポーチに入れている。


 ただし、経費にはしていない。

 あれは俺の気持ちだからだ。


「何を笑っているの?」


 氷室さんに聞かれて、俺は慌てて画面を見た。


「いや、俺、成長したなと思って」

「自分で言うのね」

「言います。だって、めちゃくちゃ頑張りました」

「そうね」


 氷室さんは、少しだけ口元を緩めた。


「頑張ったと思うわ」


 この人の『頑張った』は、今でも信じられないくらい効く。

 そして言い方が、とんでもなく可愛い。


「もう一回言ってもらっていいですか」

「調子に乗らない」

「はい」


 でも、氷室さんは笑っていた。

 俺の部屋に氷室さんがいるのは、今日で何度目だろう。

 最初は風邪を引いた日だった。

 あの日は、部屋の惨状を見られ、病院へ連れていかれ、お粥を温めてもらい、医療費の領収書を回収された。


 あれから、部屋も少し変わった。

 床に服は落ちていない。

 テーブルの上にある書類は、ちゃんと用途別に分けられている。

 冷蔵庫には、ふるさと納税で届いた米を炊いた残りと、冷凍惣菜がある。

 コーヒー豆もまだ少し残っている。


 そして、ローテーブルの端には、氷室さんがくれた領収書入れが置いてある。

 俺の生活に、氷室さんの気配がある。

 それだけで、胸の奥が少し熱くなった。


「高瀬くん」

「はい」

「また別のことを考えているわね」

「ばれます?」

「顔に出る」

「先輩のこと考えてました」


 言ってから、空気が止まった。

 しまった。

 また口が勝手に。

 しかし、氷室さんは以前ほどすぐには話を逸らさなかった。


 少しだけ目を伏せて、それから静かに言った。


「今は、申告を終わらせましょう」

「……はい」


 拒否ではない。

 先送りだ。

 俺はもう、それくらいの違いならわかるようになっていた。


 作業は、思っていたより順調に進んだ。


 副業の収入。

 必要経費。

 会社の源泉徴収票。

 寄附金控除。

 各種確認。


 氷室さんは、ひとつひとつ俺に説明させた。

 ただ画面を操作してくれるわけではない。

 俺がわかっているかを確認する。

 俺が自分で判断できるようにする。

 それが、氷室さんのやり方だった。


「これは?」

「資料用に買ったデザイン書籍です。副業の表紙デザインでも使ったので、経費候補に入れました」

「説明できる?」

「できます。案件名と紐づけてメモも残してます」

「よし」

「これは?」

「コーヒーメーカーです」

「却下」

「まだ何も言ってないのに」

「言わなくてもわかるわ」

「生活費です」

「よろしい」


 俺は笑いながら、該当なしのフォルダに入れた。

 前なら、なんとか経費にできないかと考えていたと思う。


 でも今は違う。

 自分の買い物に、ちゃんと名前をつけられるようになった。

 仕事のための支出。

 生活のための支出。

 見栄のための支出。

 不安をごまかすための支出。

 そして、人を思って使った支出。


 全部をごちゃ混ぜにしない。

 それだけで、少しだけ自分の輪郭がはっきりした気がする。


「最後に、送信前の確認ね」


 氷室さんが言った。

 俺は背筋を伸ばした。

 画面には、申告内容の確認ページが表示されている。

 数字が並んでいる。

 数か月前なら、見ただけで閉じていたかもしれない画面だ。


 でも今は、怖いだけではなかった。

 これは、俺が一年間どう働いて、どう受け取り、どう使い、どう整えたかの記録だ。


 完璧ではない。

 浪費もあった。

 雑な管理もあった。

 見ないふりをしていたものもあった。

 それでも、今はここに向き合っている。


「大丈夫そう?」


 氷室さんが聞いた。

 俺は深く息を吸った。


「大丈夫だと思います」

「不安なところは?」

「専門的に確認が必要そうなところは調べたし、曖昧なものは無理に入れてません。領収書も残してあります。あと、先輩に何度も見てもらいました」

「私は税理士ではないから、最終判断はあなたよ」

「はい」


 俺は頷いた。


「俺の申告なので、俺が送ります」


 氷室さんが、少しだけ目を細めた。

 嬉しそうに見えた。

 いや、たぶん嬉しかったのだと思う。


 俺はマウスに手を置いた。

 送信ボタン。

 たった一回クリックするだけなのに、やたら緊張する。


「押します」

「ええ」

「本当に押します」

「押して」

「何か、こう、儀式的な言葉とか」

「期限内に提出できて偉いわ」

「押します」


 俺は即座にクリックした。

 画面が切り替わる。


 数秒。


 受付完了の文字が出た。


「……終わった」


 声が漏れた。


「終わりました、先輩」

「ええ。お疲れさま」

「終わった……!」


 俺はその場で両手を上げた。

 叫びたい。

 踊りたい。

 でも隣に氷室さんがいるので、かろうじて人間の形を保った。


「すごい。俺、確定申告できました」

「できたわね」

「俺、もう税理士さんの息子に少し勝てますか」

「まだ勝負していたの?」

「心の中で」

「少なくとも、去年のあなたには勝っていると思うわ」


 その言葉に、胸が詰まった。


 去年の俺。

 数字を見ないふりをしていた俺。

 副業収入をお小遣いだと思っていた俺。

 生活防衛資金という言葉も知らず、感情が揺れるたびに買い物をしていた俺。


 たしかに、そいつには少し勝てた気がする。


「先輩」

「何?」

「ありがとうございました」


 俺は、ちゃんと頭を下げた。


「俺、氷室さんがいなかったら、絶対ここまでできなかったです」

「あなたがやったのよ」

「でも、先輩が見てくれたからです」

「私は、見ただけ」

「それが大きかったんです」


 氷室さんは、何も言わなかった。

 だから俺は続けた。


「俺、最初は先輩に好きになってほしくて頑張ってました」

「……そうね」

「でも、途中から少し変わりました」


 氷室さんが俺を見る。


「ちゃんとしたいと思ったんです。自分の生活も、お金も、仕事も。好きな人に見られて恥ずかしくないように、じゃなくて、自分で自分を雑に扱わないために」


 言葉にしながら、少し照れくさくなった。

 でも、これは言いたかった。


「もちろん、今でも先輩に好きになってほしいです」

「そこは変わらないのね」

「変わりません」


 俺は氷室さんを見た。


「でも、先輩に選ばれるためだけじゃなくて、俺が俺の人生をちゃんと持つために、変わりたいと思いました」


 氷室さんの表情が、ほんの少し揺れた。

 クリスマス前の夜に見た、あの泣きそうな顔に少し似ていた。

 でも今日は、痛そうではなかった。

 もっと、静かで、柔らかい顔だった。


「そう」


 氷室さんは小さく言った。


「それを聞けて、よかった」


 俺は笑った。


「じゃあ、今日の俺はかなりえらいですか」

「かなりえらいわ」

「録音していいですか」

「だめ」

「ですよね」


 そこで、ふっと空気が緩んだ。

 俺は立ち上がり、キッチンへ向かった。


「コーヒー淹れます。確定申告完了記念で」

「夜に飲んで眠れる?」

「カフェインレスもあります」

「用意がいいわね」

「成長しました」

「そうね」


 氷室さんが、素直に頷いた。

 俺はカフェインレスのコーヒーを淹れた。

 ふるさと納税で届いた豆ではない。

 あれはもう飲み切っていた。


 でも、あのコーヒー豆から始まった時間は、確かにここまで続いている。

 マグカップを二つ持って戻ると、氷室さんは領収書入れを手に取っていた。

 俺がクリスマスにもらったものだ。


「使っているのね」

「毎日使ってます」

「レシート、溜めすぎていない?」

「週一で整理してます」

「本当に?」

「本当です。見ます?」

「あとで抜き打ち監査するわ」

「今日くらい休みません?」

「継続契約でしょう」


 俺は笑った。

 氷室さんも、少し笑った。

 ローテーブルを挟んで向かい合い、カフェインレスのコーヒーを飲む。

ブックマーク、★★★★★、リアクション

よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。



こちらの作品もよろしくお願いします
▶ 婚約者の浮気現場に遭遇しましたが、一向に終わらないので証人を集めてきました
異世界恋愛/婚約者の浮気/修羅場コメディ/証人集め/婚約解消/冷静令嬢/ざまぁ/ハッピーエンド
本作品の文章・タイトル・設定等の無断転載、無断複製、生成AIへの入力および学習利用を禁じます。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ