第20話 恋も人生も長期保有
深夜ではない。
まだ二十一時過ぎだ。
でも、確定申告が終わったせいか、部屋の空気がいつもよりずっと静かに感じる。
ひとつの山を越えた。
そう思った。
「高瀬くん」
「はい」
氷室さんが、マグカップを置いた。
その声が、いつもと少し違った。
仕事の話でも、税金の話でも、家計簿の話でもない声。
「私、最初にあなたを振ったでしょう」
「はい。かなりはっきり」
「そこまで強調しなくてもいいわ」
「すみません」
「あの時、嘘は言っていなかった」
俺は黙って聞いた。
「あなたを恋愛対象として見ていないと思っていたのは、本当。少なくとも、あの時点では」
「はい」
「でも、それだけじゃなかった」
氷室さんは、自分の手元を見た。
今日は手袋をしていない。
部屋の中だから当たり前だ。
けれど、その指先は少しだけ落ち着かなさそうにマグカップの縁を撫でていた。
「あなたが、昔の人に少し似て見えた」
胸が、少しだけ痛んだ。
でも、逃げなかった。
「生活を見ない。お金を感情で使う。夢や才能はあるのに、自分の足元を軽く見る。だから、怖かった」
「……はい」
「また同じことになると思った。私が口を出して、相手に嫌がられて、最後に金の話ばかりする女だと言われる。そうなるくらいなら、最初から距離を置いた方がいいと思った」
氷室さんの声は、静かだった。
でも、ひとつひとつの言葉に、きちんと重さがあった。
「だからあなたを見ないようにしたかった。でも、見過ごせなかった」
「それで、家計簿アプリを?」
「そう」
「振った相手に?」
「振った相手に」
「なかなかすごいですね」
「自分でもそう思うわ」
氷室さんは、少しだけ笑った。
その笑顔が、すぐに柔らかくなる。
「でも、あなたは変わった」
「まだ途中です」
「ええ。途中ね」
氷室さんは、俺を見た。
「でも、逃げなかった」
その言葉に、何かが胸の奥でほどけた。
逃げなかった。
そう言われたことが、思っていた以上に嬉しかった。
「サブスクを見た時も、副業収入を整理した時も、還付金を使わなかった時も、風邪の日の領収書も、ふるさと納税で喧嘩した時も、私の昔の話を聞いた時も」
氷室さんの声が、少しだけ震えた。
「あなたは、嫌がりながらも向き合った」
「めちゃくちゃ嫌がりましたけどね」
「そうね」
「でも、先輩が見捨てなかったからです」
「見捨てたくなかったの」
心臓が、強く鳴った。
氷室さんは、もう目を逸らさなかった。
「高瀬くん」
「はい」
「私は、あなたが思っているよりずっと前から、あなたに甘いわ」
息が止まった。
ずっと前。
それは、いつからだろう。
俺のUI案を拾ってくれた時か。
失恋直後に買い物を止めてくれた時か。
風邪の日に来てくれた時か。
クリスマスに領収書入れをくれた時か。
それとも、俺が気づかないもっと前からだろうか。
「先輩」
「何?」
「それ、期待していいやつですか」
声が少し掠れた。
氷室さんは、ほんの少しだけ頬を赤くした。
それでも、逃げなかった。
「ええ」
短い返事。
でも、それだけで十分だった。
いや、十分ではない。
もっと聞きたい。
でも、聞くのが怖い。
俺が黙っていると、氷室さんが静かに息を吐いた。
「あなた、本当にこういう時は臆病ね」
「だって、前に振られてるので」
「そうね」
「なので、できれば明確にお願いしたいです」
「明確に」
「はい。俺の理解力でもわかるように」
氷室さんは少し考えた。
そして、姿勢を正した。
まるで会議で結論を述べる時みたいに。
「高瀬湊くん」
「はい」
「私は、あなたが好きです」
世界が止まった。
いや、止まってはいない。
エアコンは動いている。
コーヒーの湯気も上がっている。
外では車の音がする。
でも俺の中では、完全に何かが止まった。
そして次の瞬間、一気に動き出した。
「……本当に?」
「こういう時に冗談は言わないわ」
「俺でいいんですか」
「あなたがいいの」
無理だった。
胸がいっぱいになって、何も言えなくなった。
氷室さんは、困ったように微笑む。
「あなたは?」
「好きです」
即答だった。
「ずっと好きです。振られても、サブスク切られても、領収書回収されても、ふるさと納税で米を選ばされても、ずっと好きでした」
「最後の方、少し不満が混ざっていない?」
「混ざってません。全部込みで好きです」
氷室さんの目元が、少しだけ赤くなった。
俺はローテーブル越しに、そっと手を伸ばした。
触れていいのかわからなかった。
だから、手のひらを上にして待った。
氷室さんは数秒、その手を見つめていた。
それから、自分の手を重ねてくれた。
冷たい。
でも、前より少しだけ暖かい気がした。
「高瀬くん」
「はい」
「付き合うなら、条件があります」
「はい。家計簿共有ですか」
「それも必要に応じて」
「あるんだ」
「まず、自分の生活を私に丸投げしないこと」
「はい」
「私も、あなたの人生を管理しすぎないこと」
「はい」
「お金の話から逃げないこと」
「はい」
「感情を買い物だけで処理しないこと」
「はい」
「そして」
氷室さんの指が、俺の手を少し握り返す。
「私のことを、過去の誰かの代わりにしないこと」
「しません」
俺はすぐに言った。
「先輩は先輩です。氷室怜奈さんです。数字に強くて、怖くて、優しくて、ブラックコーヒーが飲めて、手が冷たくて、でも最近少し暖かくなった人です」
「最後はあなたの手袋のおかげね」
「俺の功績にしていいですか」
「少しだけ」
氷室さんが笑った。
俺はつられて笑った。
重ねた手の温度が、ゆっくり混ざっていく。
「俺からも条件いいですか」
「何?」
「たまには、俺にも頼ってください」
氷室さんが黙った。
「お金のことはまだ先輩の方が強いです。たぶん一生強いです。でも、先輩が疲れた時とか、寒い時とか、ひとりで抱え込みそうな時は、俺にも何かさせてください」
「……考えておくわ」
「そこは即答じゃないんですね」
「苦手なの」
「じゃあ、練習しましょう」
「私みたいなことを言うのね」
「先輩に鍛えられました」
氷室さんは小さく息を吐いた。
呆れたようで、少し嬉しそうだった。
俺たちは、しばらく手を繋いだまま黙っていた。
恋人になった。
たぶん、今。
この地味で現実的な部屋で。
確定申告が終わった夜に。
ロマンチックなレストランでも、イルミネーションの下でもなく。
領収書と支払調書とカフェインレスコーヒーの横で。
それが、俺たちらしくて笑えた。
「先輩」
「何?」
「キスしてもいいですか」
氷室さんの指が、わずかに跳ねた。
「聞くのね」
「聞きます。支出も接触も、事前確認が大事かと」
「変なところで学習しないで」
「だめですか」
氷室さんは、少しだけ視線を逸らした。
それから、小さな声で言った。
「だめなら、手を繋いでいないわ」
心臓が、今までで一番大きく鳴った。
俺はローテーブルの横へ回り込み、氷室さんの隣に座った。
近い。
近いのに、もう逃げなくていい。
氷室さんが少しだけ顔を上げる。
俺はゆっくり近づいた。
唇が触れる。
本当に軽く。
髪の毛をまとめる、柔らかなシュシュが指先をかすめる。
手に触れる、氷室さんの頬は、それよりもずっと柔らかい。
でも、離れた瞬間、氷室さんの頬が赤くなっていて。
その表情が、反則なくらい可愛くて。
俺はもう一度好きになった。
「……今の」
「はい」
「確定申告完了後の報酬ではないからね」
「わかってます」
「経費にもならないわ」
「しません」
「家計簿には?」
「つけません」
「よろしい」
真面目な顔で言うから、俺は笑ってしまった。
氷室さんも、少し笑った。
その笑顔が近くにある。
触れてもいい距離にある。
俺はもう一度、そっと手を握った。
「先輩」
「何?」
「これからも、長期でお願いします」
氷室さんは、俺の手を握り返した。
「短期売買には向かないんでしょう?」
「はい」
「なら、長期保有ね」
「暴落したら?」
「話し合う」
「損切りは?」
「簡単にはしないわ」
「買い増しは?」
「調子に乗らない」
「はい」
俺は笑った。
確定申告は終わった。
生活防衛資金も、NISAも、企業年金の見直しも、まだ始まったばかりだ。
俺の浪費癖も、完全に治ったわけではない。
たぶんこれからも、欲しいものは出てくる。
ストレスで買いたくなる夜もある。
氷室さんに怒られることも、きっとある。
でも、もう前みたいにひとりで雑に決済ボタンを押すことはないと思う。
少なくとも、押す前に考える。
自分の生活を。
自分の未来を。
そして、隣にいる人を。
俺は氷室さんの手を見た。
クリスマスに贈った手袋はしていない。
だから、直接その温度が伝わる。
前より少し暖かい手。
俺はその手を、大事に握った。
恋は非課税ではないのかもしれない。
でも、こんなに手間がかかって、こんなに現実的で、こんなに面倒で。
それでも手放したくないと思うなら。
きっとこれは、俺にとって一番後悔のない支出で、一番大事な長期投資なのだと思う。
最後までお付き合いありがとうございました。
税金、確定申告、NISA、ふるさと納税。
初の書籍化で色々調べていたはずなのに、気づいたらラブコメになっていました。
たぶん私の脳内にも監査が必要です。
湊の財布と恋がどうにか黒字着地できたと思っていただけましたら、
フォロー、★★★★★、応援などいただけると嬉しいです( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




