第18話 断らなくていい日まで待ちます
「ですよね。すみません、返してもらっても」
「そういう意味じゃない」
氷室さんは、手袋を胸元に寄せた。
「高いものをもらうより、私を見て選ばれた方が、困る」
「困るんですか」
「困るわ」
氷室さんは目を伏せた。
「断りにくくなる」
心臓が、強く鳴った。
断りにくくなる。
それは、プレゼントの話だろうか。
それとも、俺の気持ちの話だろうか。
聞きたい。
でも、聞いたら壊れそうな気がした。
俺は少しだけ息を吐き、笑った。
「じゃあ、断らなくていい日まで待ちます」
氷室さんの指が、手袋をきゅっと握った。
「高瀬くんは」
「はい」
「待つの、得意だった?」
「苦手です」
「でしょうね」
「でも、練習中です。短期売買には向かないらしいので」
氷室さんが、ふっと笑った。
前に自分が言った言葉を思い出したのだろう。
「そうね」
彼女は手袋を片方、ゆっくりとはめた。
サイズは少し不安だった。
でも、指先まできれいに収まった。
黒いコートの袖口から、チャコールグレーの革が覗く。
似合う。
想像していたより、ずっと。
「ぴったりですか?」
「ええ」
「よかった」
本当に、心の底からそう思った。
氷室さんは、もう片方もはめた。
そして、手を軽く握ったり開いたりする。
「暖かい」
「よかったです」
「ありがとう」
その声が、あまりにも柔らかくて、俺は一瞬返事ができなかった。
いつもの『よろしい』でも『えらい』でもない。
ただの、ありがとう。
でも、今までで一番効いた。
「私からも」
「え?」
氷室さんが、自分のバッグから小さな包みを取り出した。
白い封筒ほどの大きさの、シンプルな包装。
「え、俺にですか」
「他に誰がいるの」
「いや、予想してなくて」
「大したものではないわ」
俺は受け取った。
開けると、中に入っていたのは薄いレザーのポーチだった。
落ち着いたネイビーで、ファスナー付き。
中には仕切りがある。
「これは」
「領収書入れ」
氷室さんは、少しだけ気まずそうに言った。
「あなた、まだ鞄の中でレシートを折り曲げるでしょう。だから、持ち歩き用に」
俺はポーチを見た。
クリスマスプレゼント。
領収書入れ。
あまりにも氷室さんだった。
そして、あまりにも嬉しかった。
「最高です」
「本当に?」
「はい。俺のこと見て選んでますよね」
言った瞬間、氷室さんがわずかに目を逸らした。
「必要だと思っただけ」
「それを、見て選んでるって言うんですよ」
「……そうかもしれないわね」
俺はポーチを両手で持った。
今まで貰ったどんなプレゼントより、実用的で、甘さがなくて、でも妙に心臓に悪い。
「これ、経費にしません」
「当たり前でしょう。私への手袋も、経費にしないでね」
「しませんよ」
「どうして?」
彼女は、試すように聞いた。
俺は少しだけ考えてから答えた。
「先輩へのプレゼントは、俺の気持ちなので」
言ってから、顔が熱くなった。
でも、撤回はしなかった。
氷室さんは黙っていた。
新しい手袋をはめた手で、紙袋の持ち手をそっと握っている。
ツリーの光が、その横顔を照らしていた。
「そう」
短い返事。
でも、その声は少しだけ震えていた気がした。
「高瀬くん」
「はい」
「今日、帰りに少し歩ける?」
「歩けます」
「駅まで」
「はい」
「イルミネーションの通りを通ってもいい?」
俺は一瞬、返事を忘れた。
氷室さんから、そんなことを言うとは思っていなかった。
「もちろんです」
「じゃあ、片付けてくるわ」
「はい」
打ち合わせスペースを出たあと、俺は自分のデスクに戻りながら、胸を押さえた。
やばい。
クリスマス、やばい。
何も成立していない。
付き合ってもいない。
キスもしていない。
でも、氷室さんは俺のプレゼントを受け取って、手袋をはめて、駅まで一緒に歩こうと言った。
十分すぎる。
少なくとも、今の俺には。
退勤後、俺たちは並んで会社を出た。
駅まで少し遠回りをして、イルミネーションの並ぶ通りを歩く。
街路樹には白い光が巻かれ、歩道には恋人らしき人たちがたくさんいた。
俺と氷室さんは、恋人ではない。
でも、隣を歩いている。
氷室さんの手には、俺が贈った手袋。
俺のバッグの中には、氷室さんがくれた領収書入れ。
なんだそれ。
ロマンチックなのか、現実的なのか。
たぶん両方だ。
「暖かいですか」
俺が聞くと、氷室さんは手袋をはめた指を少し動かした。
「ええ。とても」
「よかった」
「あなたは?」
「俺?」
「ポーチ」
「ああ。明日から使います。レシート、全部ここに入れます」
「全部は入れすぎないで。週に一度は整理して」
「監査が続いている」
「継続契約でしょう?」
その言い方が自然すぎて、胸が詰まった。
「はい。よろしくお願いします」
俺がそう言うと、氷室さんは小さく頷いた。
駅が近づく。
この時間が終わってしまうのが、少し惜しかった。
でも、今日は欲張らない。
今の俺には、このくらいがいい。
改札前で、氷室さんが立ち止まった。
「高瀬くん」
「はい」
「プレゼント、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます」
「大事に使うわ」
「俺もです」
氷室さんは何かを言いかけて、やめた。
それから、少しだけ困ったように笑う。
「本当に、断りにくくなるわね」
俺は息を呑んだ。
返事を探している間に、氷室さんは改札を通った。
振り返って、手袋をはめた手を小さく上げる。
俺はその場に立ったまま、同じように手を上げた。
その夜。
家に帰ってから、俺は家計簿アプリを開いた。
今日の支出。
クリスマスプレゼント。
金額を入力する。
カテゴリは、交際費にした。
少し迷って、メモ欄に書く。
氷室さんへの手袋。
予算内。生活防衛資金には手をつけていない。
経費にはしない。
先輩の手は、少し暖かくなった。
それから、バッグの中からもらったポーチを取り出した。
最初に入れるものを考える。
今日、手袋を買ったレシート。
それを入れようとして、少し笑った。
これは経費にはならない。
控除にもならない。
還付もされない。
でも、たぶん今までで一番、後悔のない支出だった。
俺はレシートをきれいに伸ばして、氷室さんにもらったポーチに入れた。
恋は、まだ申告できる段階ではない。
でも今日、俺は初めて、浪費ではなく誰かを思ってお金を使えた気がした。
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