第17話 クリスマスプレゼントは経費にならない
クリスマスイブの朝、俺は家計簿アプリを開いたまま、ベッドの上で固まっていた。
買うべきか。
買わないべきか。
いや、買うこと自体はもう決めている。
問題は、何を買うかだ。
相手は氷室怜奈さん。
俺を振った人。
俺に家計簿アプリを入れた人。
サブスクを七つ切り、副業収入を収入として認識させ、還付金でタブレットを買おうとした俺を止め、風邪を引いた俺を病院に連れていき、ふるさと納税で米を選ばせた人。
そして、クリスマス前の夜に、自分の弱さを少しだけ見せてくれた人。
何かを贈りたかった。
恋人でもない。
まだ、先輩と後輩だ。
だから重すぎるものはだめだ。
でも、適当なものもだめだ。
俺はスマホの検索履歴を見た。
ブランド ネックレス クリスマス
女性 プレゼント 社会人
高すぎない アクセサリー
クールな女性 贈り物
手袋 上質 レザー
冷え性 プレゼント
前半の検索履歴が、あまりにも俺だった。
好きな人に何かを贈るとなった瞬間、俺はすぐ「高いもの」「映えるもの」「一発で特別感が出るもの」に飛びつこうとした。
でも、昨日の夜、家計簿アプリを見ながら止まった。
これ、氷室さんが喜ぶものじゃなくて、俺が「喜ばせた気になれる」ものだ。
そう気づいた瞬間、購入ボタンから指が離れた。
氷室さんは、高いアクセサリーを突然もらって喜ぶタイプではない。
むしろ困る。
たぶん、価格を調べる。
そして「この支出は予算内?」と聞く。
その顔まで想像できる。
俺はベッドの上で、深く息を吐いた。
「……手袋、かな」
思い出すのは、氷室さんの手だ。
風邪を引いた日に、額に触れた冷たい手。
給湯スペースでマグカップを包んでいた手。
エントランスで、ホットの紅茶缶を両手で持っていた手。
いつも資料を正確にめくる、細くてきれいな指。
その手が、よく冷えていることに俺は気づいていた。
気づいていた。
なら、そこを見て選びたい。
俺は予算を確認した。
今月の自由費。
クリスマス用に残しておいた分。
サブスクを切って浮いた分のうち、生活防衛資金に回さなかった小さな枠。
無理はない。
背伸びもしすぎていない。
でも、安く済ませたいわけじゃない。
ちゃんと考えて、ちゃんと選ぶ。
俺は昼休みに会社近くの百貨店へ行った。
平日の昼なのに、売り場はクリスマス前の熱気でいっぱいだった。
アクセサリー売り場、コスメ売り場、マフラー、バッグ、財布。
少し前の俺なら、この空気に簡単に飲まれていたと思う。
せっかくだから。
今だけだから。
好きな人へのプレゼントだから。
そう言い訳して、予算を一段も二段も上げていた。
でも今日は、家計簿アプリを開いた。
予算を見る。
深呼吸する。
売り場のきらきらに負けない。
「すみません。女性用の手袋を見たいんですけど」
店員さんに案内され、革手袋の棚を見る。
黒。
グレー。
深いネイビー。
内側がカシミヤ混のもの。
スマホ対応のもの。
リボンがついたかわいいものもあったが、氷室さんには少し甘すぎる気がした。
俺が選んだのは、チャコールグレーの革手袋だった。
形はすっきりしていて、飾りは小さな金具だけ。
内側はやわらかく、指を入れた瞬間に暖かい。
値段は、安くはない。
でも、払える範囲だった。
これなら、たぶん困らせすぎない。
それに、氷室さんのコートにも合うと思った。
「プレゼントですか?」
店員さんに聞かれて、俺は一瞬詰まった。
「あ、はい。……いつもお世話になってる先輩に」
「素敵ですね」
「いや、まだそういうあれではなく」
「そういうあれ、なんですね」
「いえ、本当に、そういうあれでは」
俺がしどろもどろになっている間に、店員さんは綺麗に包んでくれた。
小さな紙袋を受け取った瞬間、胸が少し重くなった。
怖い。
喜んでもらえなかったら。
重いと思われたら。
余計なことをしたと思われたら。
でも、買った瞬間の高揚感だけで突っ走っているわけではない。
ちゃんと考えた。
ちゃんと予算内に収めた。
ちゃんと、氷室さんを見て選んだ。
だから大丈夫。
たぶん。
午後の仕事は、ほとんど手につかなかった。
紙袋はロッカーに入れている。
それなのに、やけに存在感がある。
会議中も、デザイン修正中も、社内チャットの返信中も、頭の片隅にずっと手袋がいた。
夕方、クリスマスイブだからか、社内はいつもより少し早く人が減っていった。
俺はデスクでタイミングを計っていた。
氷室さんはまだ席にいる。
今日中に片付けたい資料があるのだろう。
タブレットとノートPCを並べ、淡々と作業している。
声をかけるなら、今しかない。
俺はロッカーから紙袋を取り出し、深呼吸した。
プレゼンより緊張する。
告白した時よりは、少しだけマシかもしれない。
いや、嘘だ。
同じくらい緊張する。
「氷室さん」
声をかけると、氷室さんが顔を上げた。
「何?」
「あの、少しだけいいですか」
「業務?」
「業務では、ないです」
この台詞、前にも言った。
たしか、告白した夜だ。
氷室さんも覚えていたのか、一瞬だけ目を細めた。
「……わかったわ」
俺たちは、誰もいない小さな打ち合わせスペースに移動した。
ガラス越しに、エントランスのツリーが見える。
白いライトが、夜のオフィスに淡く滲んでいた。
俺は紙袋を両手で持ったまま、数秒固まった。
氷室さんが静かに待っている。
「これ」
俺はようやく紙袋を差し出した。
「いつもお世話になっているので」
「え?」
「その、家計簿とか、サブスクとか、確定申告とか、生活防衛資金とか、ふるさと納税とか。いろいろ面倒見てもらってるので」
「それは、あなたが必要だったから」
「はい。でも、俺は助かってます」
氷室さんは紙袋を見たまま、すぐには受け取らなかった。
「高瀬くん」
「はい」
「高いものではない?」
来た。
予想通りだった。
「予算内です」
「本当に?」
「本当です。家計簿アプリにも入れます。生活防衛資金には手をつけてません。サブスクを切って浮いた分も、ちゃんと大半は貯蓄に回してます」
「そこまで聞いていないわ」
「聞かれると思って準備してました」
氷室さんが、少しだけ笑った。
「成長したわね」
「監査報酬です」
「監査報酬にしては、現物支給なのね」
「あと、来年も継続契約でお願いします」
言ってから、心臓が跳ねた。
冗談のつもりだった。
でも、本音でもあった。
来年も。
その次も。
俺は、この人に自分の生活を見られても恥ずかしくない人間になりたい。
氷室さんは、ゆっくり紙袋を受け取った。
「開けてもいい?」
「はい」
包装紙が丁寧にほどかれる。
箱が開く。
チャコールグレーの革手袋を見た瞬間、氷室さんの表情が止まった。
失敗したか。
重かったか。
不安が一気にこみ上げる。
「あの、もし趣味じゃなかったら」
「違う」
氷室さんが、俺の言葉を遮った。
「そうじゃなくて」
彼女は手袋をそっと持ち上げた。
指先で革の表面を撫でる。
「……どうして、手袋?」
「先輩、手が冷たいので」
言った瞬間、氷室さんがこちらを見た。
「風邪の時、額に触れた手も冷たかったし。給湯スペースでも、よくマグカップを両手で持ってるし。前にエントランスで紅茶渡した時も、指が冷たかったので」
口にすると、思ったよりずっと見ている人みたいで恥ずかしくなった。
いや、見ている。
俺はこの人を、かなり見ている。
「だから、その。高いアクセサリーとかより、使えるものがいいかなと思って」
氷室さんは、何も言わなかった。
ただ、手袋を見つめている。
沈黙が怖い。
「すみません。やっぱり重かったですか」
「重いわね」
即答だった。
俺は撃沈した。
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