第15話 先輩の弱さを初めて見た
クリスマスまで、あと三日。
会社のエントランスに置かれたツリーは、先週より少しだけ存在感を増していた。
金色のオーナメント。白いライト。赤いリボン。
普段は業務連絡と仕様書と不具合票にまみれているオフィスも、この時期だけはほんの少し浮かれて見える。
だが、俺の心は浮かれていなかった。
理由は明白だ。
税理士さんの息子。
その存在が、俺の中で日に日に巨大化していた。
実物を見たことはない。
名前も知らない。
それなのに、俺の脳内ではすでに黒縁眼鏡で、スーツが似合って、確定申告も年末調整もふるさと納税も完璧で、家計簿アプリなんか最初から有料版を使っている男として完成していた。
強い。
あまりにも強い。
俺は会議資料を開きながら、心の中で何度目かわからないため息をついた。
「高瀬くん」
「はいっ」
背後から声をかけられて、椅子ごと跳ねそうになった。
振り返ると、氷室怜奈さんが立っていた。
今日の氷室さんは、黒いニットにグレーのスカート。
今日は毛先を少しだけ巻いたハーフアップで、黒い細リボンがクリスマス前の浮ついた空気に控えめに馴染んでいる。
手にはタブレットと、資料の束。
相変わらず隙がない。
そして相変わらず、好きだ。
「十六時からのレビュー資料、更新版はどこ?」
「あ、共有フォルダに入れてます。ファイル名、末尾がv3のやつです」
「確認するわ」
「お願いします」
氷室さんは俺のモニターを覗き込んだ。
距離が近い。
先週までは、この距離だけで脳内のメモリが落ちかけていた。
今も落ちかけている。
だが俺は成長した。
少なくとも、落ちた勢いで限定スニーカーを買うことはなくなった。
「ここ」
氷室さんが画面を指す。
「初回チュートリアル離脱率の比較、前回の数値と差し替わっている?」
「あ、はい。昨日の集計分を入れました」
「なら、注釈を追加して。見る人によっては、前回との差分がわかりにくい」
「了解です」
「それと、この改善案はいいと思う。ユーザーが迷うポイントが減っている」
褒められた。
仕事の話なのに、胸が浮く。
「ありがとうございます」
「午後までに直せる?」
「直します」
「よろしく」
氷室さんはそう言って、自分の席へ戻っていった。
その背中を見送りながら、俺は小さく息を吐く。
好きだ。
どうしようもなく好きだ。
でも、彼女は俺を恋愛対象として見ていないと言った。
それなのに、俺のサブスクを切り、副業収入を整理し、生活防衛資金を考えさせ、風邪を引けば病院へ連れていき、ふるさと納税の返礼品で喧嘩までした。
いったい何なのだろう、この関係は。
恋ではない。
でも、ただの先輩後輩でもない。
少なくとも俺にとっては。
午後のレビューは、問題なく終わった。
俺のUI改修案は、年明けのABテスト候補として残った。
氷室さんも、数字面での検証設計を後押ししてくれた。
会議後、開発チームのメンバーに「高瀬くんの案、見やすかった」と言われて、素直に嬉しい。
いい仕事ができた日は、少し気分が軽くなる。
そして、気分が軽い日は買い物をしたくなる。
俺はデスクに戻って、そっと通販サイトを開きかけた。
いや、違う。
今のは悪い買い物ではない。
仕事がうまくいった記念に、ちょっといいコーヒードリッパーを見るだけだ。
買うとは言っていない。
見るだけ。
そう思った瞬間、スマホの家計簿アプリの通知が鳴った。
『今日の支出を記録しましょう』
俺は固まった。
こいつ、タイミングが良すぎる。
氷室さんが中に入っているのか。
「……見てる?」
思わず呟き、通販サイトを閉じた。
その時、社内チャットに通知が来た。
氷室さんからではない。
事業管理部の共通チャンネル。
『氷室さん、本日十八時以降不在。急ぎは代理へ』
不在。
十八時以降。
俺は反射的に氷室さんの席を見た。
彼女はいつも通りの顔で、資料をまとめていた。
だが、よく見ると、少しだけ動きが硬い。
気のせいかもしれない。
でも最近、俺はこの人の小さな変化に敏感になっている。
十八時を少し過ぎた頃、氷室さんは上司に一言声をかけてから席を立った。
黒いコートを羽織り、バッグを持って、静かにオフィスを出ていく。
俺はモニターを見つめたまま、数秒迷った。
追う理由はない。
俺は恋人ではない。
何か用事があるのだろう。
たぶん、例の食事かもしれない。
税理士さんの息子。
胸の奥が、じわっと嫌な熱を持つ。
だからといって、追いかけるのは違う。
絶対に違う。
俺は自分にそう言い聞かせ、仕事に戻ろうとした。
だが、十分後。
自動販売機に行くために廊下へ出た俺は、エントランスの隅に立つ氷室さんを見つけてしまった。
彼女は電話をしていた。
ツリーの白いライトが、横顔を照らしている。
いつもの冷静な顔ではなかった。
唇をきゅっと結び、片手でバッグの持ち手を強く握っている。
「……だから、行かないって言ったでしょう」
声が聞こえた。
俺は足を止めた。
聞いてはいけない。
わかっている。
でも、その声があまりにも苦しそうで、動けなかった。
「条件がいいとか、そういう話じゃないの。私は……」
氷室さんの声が途切れる。
少しして、また続いた。
「わかってる。お母さんが心配してるのはわかってる。でも、もう誰かの生活を背負うみたいな恋はしたくないの」
心臓が、重く鳴った。
電話の相手は、たぶん母親だ。
見合い話。
税理士さんの息子。
そして、誰かの生活を背負うみたいな恋。
氷室さんは黙って相手の言葉を聞いていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……あの人みたいな人を選ぶつもりはないわ」
あの人。
その言葉だけで、胸がざわついた。
「でも、だからって、条件だけで選べるわけじゃない」
氷室さんの声が、少し震えた。
「もう切るね」
電話が切られた。
氷室さんはスマホを下ろしたまま、しばらく動かない。
ツリーの光が、彼女の横顔にきらきらと反射している。
それなのに、彼女の表情は少しも華やかではなかった。
俺は、どうするべきか迷った。
声をかけるのは、踏み込みすぎかもしれない。
でも、このまま見なかったふりをして通り過ぎるのも違う気がした。
結局、俺は自動販売機でホットの紅茶を買った。
缶が温かい。
それを持って、ゆっくり氷室さんに近づく。
「氷室さん」
彼女が顔を上げた。
一瞬、驚いた顔をした。
すぐにいつもの表情へ戻そうとしたが、間に合っていなかった。
「高瀬くん」
「すみません。聞くつもりはなかったんですけど、少し聞こえました」
「……そう」
「これ、よかったら」
俺はホットの紅茶を差し出した。
氷室さんは、すぐには受け取らなかった。
「経費にはならないわよ」
「しませんよ」
「家計簿には?」
「つけます。交際費ではなく、たぶん飲料代です」
「そこまで分類できるなら上出来ね」
氷室さんは小さく笑って、缶を受け取った。
指先が触れる。
いつか風邪を引いた日に額に置かれた手と同じように、氷室さんの指は少し冷たかった。
「寒くないですか」
「少し」
「中、戻ります?」
「……少しだけ、外の空気を吸いたい」
「じゃあ、俺も少しだけ」
氷室さんは何も言わなかった。
拒否されなかったので、俺は隣に立った。
エントランスの自動ドアの向こうには、冬の夜が広がっている。
会社帰りの人たちが、マフラーに顔を埋めて駅へ向かっていた。
しばらく、二人で黙っていた。
氷室さんは缶の紅茶を両手で包むように持っている。
その姿が、いつもより少し幼く見えた。
「さっきの」
氷室さんが言った。
「母から」
「はい」
「例の食事の件。年末に一度会うだけでもって」
「……行くんですか」
「行かない」
即答だった。
俺は思わず彼女を見た。
「断るんですか」
「ええ」
「条件、悪くないんじゃ」
「悪くないと思うわ。たぶん」
「じゃあ」
「条件が悪くないことと、会いたいかどうかは別でしょう」
氷室さんの声は静かだった。
でも、そこにははっきりと意思があった。
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