第14話 俺の家計簿が初めて俺を止めた
言ってから、また心臓がうるさくなった。
俺は本当に、まっすぐ言いすぎる。
でも、嘘をつく余裕もなかった。
「でも、俺はまだ、先輩に選ばれる男じゃないのかもしれません」
言葉にすると、思ったより痛かった。
仕事はできるつもりだった。
顔も悪くないと思っていた。
でも、氷室さんの隣に立つことを考えると、それだけでは全然足りない気がした。
自分の収入も、支出も、感情も、ちゃんと扱えない。
嬉しいと買う。
つらいと買う。
寂しいと買う。
そんな男が、氷室さんの隣で何を守れるのか。
「でも」
俺は、マグカップを置いた。
「選ばれる可能性がある男には、なりたいです」
給湯スペースが静まり返る。
遠くで誰かが笑う声がした。
コピー機の音。
廊下を歩く足音。
その全部が、少し遠い。
氷室さんは、俺を見ていた。
いつもの冷静な目。
でも、どこか揺れているようにも見えた。
「……高瀬くんは」
「はい」
「そういうことを、すぐ言うのね」
「すみません」
「責めているわけじゃない」
氷室さんはコーヒーを見下ろした。
「でも、私は」
そこで言葉が止まった。
氷室さんが言いよどむところを、俺は初めて見た気がした。
「私は、条件で選べるほど器用ではないわ」
小さな声だった。
その言葉の意味を、俺はすぐには掴めなかった。
でも、胸の奥に残った。
氷室さんは、それ以上何も言わず、マグカップを持ち直した。
「午後の会議、資料は?」
「出してます」
「見たわ。よく整理されていた」
「ありがとうございます」
「それから」
「はい」
「今日、焦って何か買わないこと」
俺は思わず笑いそうになった。
この人は、本当に俺のことをわかっている。
「買いません」
「本当に?」
「家計簿アプリを開きます」
「それでも買いたくなったら?」
「一晩置きます」
「それでも欲しかったら?」
「理由を書きます」
「よろしい」
よろしい。
その言葉で、俺は少しだけ落ち着いた。
午後の仕事は、正直あまり手につかなかった。
レビュー資料を説明しながらも、頭の片隅にずっと「税理士さんの息子」がいる。
税理士。
強い。
あまりにも強い。
しかも相手は、氷室さんの母親が持ってきた話だ。
年齢も近いのかもしれない。
収入も安定しているのかもしれない。
お金の価値観も合うのかもしれない。
俺は、プロジェクトのKPI改善案を話しながら、心の中で架空の税理士と戦っていた。
会議後、席に戻ると、スマホに通知が来ていた。
通販サイト。
冬の限定スニーカー、再入荷。
以前から欲しかったモデルだった。
グレーに青の差し色。
価格、四万二千円。
今の俺の気分には、かなり危険な通知だった。
欲しい。
めちゃくちゃ欲しい。
焦りを踏みつけて走り出せる靴、みたいな気がする。
これを履けば、税理士にも勝てるのでは。
いや、勝てない。
靴では税務知識は増えない。
俺は通販サイトを開いた。
商品画像を見る。
かっこいい。
かなりかっこいい。
カートに入れる。
購入ボタンの手前まで進む。
そこで、俺は止まった。
氷室さんの声が、頭の中で聞こえた。
今日、焦って何か買わないこと。
俺は深呼吸した。
通販サイトを閉じる。
家計簿アプリを開く。
支出予定。
生活防衛資金の目標額。
今月の残り予算。
ふるさと納税。
副業収入。
現実が並んでいる。
そしてメモ欄に、俺は書いた。
税理士に靴では勝てない。
書いた瞬間、少し笑ってしまった。
何だそれ。
でも本当だ。
俺が今するべきことは、スニーカーを買うことではない。
自分の生活を投げ出さないこと。
焦りを買い物で処理しないこと。
氷室さんに「またか」と思われないこと。
そして、ちゃんと変わること。
俺はスニーカーをお気に入りから外した。
通知も切った。
すると、胸の中のざわつきが、少しだけ静かになった。
その夜。
帰宅した俺は、部屋の掃除をした。
領収書をファイルに入れ、机の上を片付け、洗濯物を畳み、冷蔵庫の中を確認した。
米がある。
冷凍惣菜もある。
コーヒー豆もある。
生活がある。
それを見て、少しだけ安心した。
スマホが鳴った。
氷室さんからだった。
『今日のコーヒー、ごちそうさまでした。おいしかったです』
俺はすぐに返信しようとして、少し考えた。
そして、正直に打った。
『こちらこそ飲んでくれて嬉しかったです。あと、スニーカー買いませんでした』
送信。
数分後、既読がついた。
『えらいわね』
俺はソファに倒れ込んだ。
だめだ。
この一言は、あまりにも効く。
さらに、もう一通。
『見合いの件は、まだ何も決めていません。あなたが気にしすぎる必要はありません』
気にしすぎる必要はない。
でも、気にしないのは無理だった。
俺は画面を見つめる。
しばらく迷ってから、返信した。
『気にします。でも、焦って買い物はしません』
今度は、少し間があった。
それから返信が来た。
『それなら、少し安心しました』
少し安心。
その言葉が、胸の奥にじんわり広がる。
恋愛対象外。
振られた後輩。
固定費監査対象。
それが今の俺だ。
でも今日は、焦っても買わなかった。
不安を、スニーカーで埋めなかった。
氷室さんの言葉を、ちゃんと聞いた。
たぶんそれは、税理士に勝つことより大事だ。
俺は家計簿アプリを開き、今日のメモ欄に追記した。
焦りで買わない。
税理士に靴では勝てない。
氷室さんは、条件で選べるほど器用ではないらしい。
最後の一文を見て、胸がまたうるさくなる。
条件ではないなら。
数字だけではないなら。
俺にも、まだ何かできるのだろうか。
答えは出ない。
でも少なくとも、今日の俺は買わなかった。
それだけは、昨日までの俺より少しマシだと思う。
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