4. 薔薇の匂いの一枚
春の議会が開く朝、壇の脇の控えの間で、ベッティーナさんから原稿を受け取った。揃った紙の端に折れはない。壁の向こうでは椅子が引かれ、諸侯の低い話し声が波のように寄せている。隣のフリートヘルム様を見上げてから、ベッティーナさんが紙をなでた。
「お約束どおりですぅ。ほら、ジーグリット様、紙の端まできれいなままでしょう? わたしも、ちゃんとお仕事をいたしますもの」
「ありがとうございます。お預けしていた三枚、揃っておりますわね。お二人は、こちらでお待ちくださいませ」
フリートヘルム様が私の前へ出る。紙には触れず、襟を引き上げた。
「そのくらい僕にも任せればいい。君が話すより、僕が壇へ立つほうが、諸侯も安心する。僕は慣れているんだ」
「壇は一つですわ。フリートヘルム様は、こちらでお静かに。そのほうが、皆様も安心なさいますもの」
原稿を抱えて議場へ出る。二十四の席は半円に並び、中央の壇を囲んでいた。奥の王族席で陛下が欠伸をする。その隣、高く結った淡い金髪を王妃様が扇でかすめる。白い小さな顔に、薄い唇。小柄な体は、玉座の陰でもまっすぐだ。
最前列では、赤銅色の短い髪の西の伯爵アルヌルフが、がっしりした体を揺らして座り直す。日に焼けた四角い顔に、無精髭が残っている。壇へ上がると、王妃様の氷のような薄青の目が、扇の上から私を見据えていた。原稿を台へ置く。木の冷たさが手袋の薄い布を通り、掌へ届いた。高い窓からの光は席を明暗に分け、紙の上だけがまぶしい。
紙の擦れる音が、壁の向こうで聞いた話し声より大きく響く。私は端を揃えて、顔を上げる。
「春の議会の開会にあたり、諸侯の皆様をお迎えいたします。王家へ届いた報告に、お返しすべき言葉がございます。本日は、私の声でお返しいたします」
一枚目を読み終え、二枚目をめくる。薔薇の匂いが立った。夜会の袖、茶卓の瓶。覚えのある甘さが、覚えのない行にまとわりつく。
『西の家々は、王家の倉で食べている』
私の字によく似ている。けれど、この言葉を私は書いていない。台の縁で紙を伏せる。最前列の衣が擦れ、出しかけた声がかすれた。紙を伏せても、匂いだけは上がってくる。
二十四の家の目が、こちらを見ている。息を一つ吸う。黙れば、あの一行を私の言葉にされる。書いた言葉までは、奪われていない。本当の二枚目の文が、書いた順に舌へ戻ってくる。
「……三年前、雨が降らなかった折に王家の倉から借りた麦を、西の家々はこの冬までに、すべて返してくださいました。借りたままではございません。王家は、その働きにお礼を申し上げます」
伏せた紙を押さえたまま、伯爵の席を見る。机で確かめた返済の字が、日に焼けた顔につながった。三枚目は、私の書いたとおりだ。私は紙へ戻しかけた目を上げる。
「本日からの議論も、それぞれの地で書かれた報告をもとに進めたく存じます。どうぞ、皆様の地で起きていることを、お聞かせください」
最後まで読み切った。紙を揃える音より、拍手が先に来る。伏せた一枚の匂いは消えない。それでも、私の声は届いている。王族席の扇が開いた。そこからは、口元が見えない。
◇
控えの間で、匂いのある一枚を机へ置く。ベッティーナさんの手が裾へ潜った。フリートヘルム様は彼女の前へ立つ。私は紙を示す。
「この一枚、薔薇の匂いがしますの。運んでいただいた原稿に、覚えのない行がございます。どこでこの紙になったのか、お心当たりはありませんか?」
ベッティーナさんが顔を上げる。裾を握ったまま、声だけが跳ねた。
「わ、わたしじゃありません! ジーグリット様、ご自分で書いた紙なのに、わたしを見るなんて……!」
フリートヘルム様が、ベッティーナさんの前で声を張る。
「ベッティーナがそんなことをするはずがない! 運んでくれた彼女に礼を言って、それで終わりだろう! 君だって、壇では最後まで読めたじゃないか!」
彼が彼女の肩を引き寄せる。紙を見ないまま庇う声は、夜会のときと同じだ。私は机の上で紙を回した。今なら、向こうからも行が読める。
「ええ、私の書いた言葉は、最後まで。では、フリートヘルム様。この一行をお読みになって。昨年と同じお話だと、お考えになりますの?」
「『西の家々は、王家の倉で』……こんなもの、君の字だろう! 僕は君の字を知っている! 君の紙の間違いを、ベッティーナのせいにするな!」
「似せてあります。でも私は、この文を一度も書いておりません。私の字に見えるからといって、私の言葉にはできませんわ。六年分、全部覚えておりますので」
「覚えている、だと? 千二百四十通をか? 僕は、そんな話、聞いていないぞ!」
「ええ。夜会の祝辞の、袖を汚して直した一行まで。紙をお渡ししても、書いた私からは消えませんの」
フリートヘルム様が紙から顔をそらす。声の大きさだけが戻ってくる。
「もういい! ベッティーナを泣かせるために、そんな話をするな!」
ベッティーナさんが目頭へ布を当てた。濡れた跡はまだ見えない。細い声が布の向こうで震える。
「ひどいですぅ、わたしを疑うなんて……。紙を運んだだけで、こんなに怖いお話になるんですか? わたし、お役に立ちたかっただけなのに」
私は扇を閉じる。泣き声と紙の字を、一緒には扱えない。
「この一枚は、私が預かります」
匂いと字の似せ方だけでは咎められない。捨てられた女の恨みと言われれば、署名が逃げる。紙を取り上げた。閉じた扇の骨を手袋越しに押さえる。
戸口に西の伯爵がいた。議場の書記の席から来た書記官が、承認状を後ろに抱えている。伯爵は私の手の紙へ目を向ける。
「壇の上で、一枚伏せたな。何が書いてあった? 俺には、紙を見ずに言ったように見えた」
「誤りがございましたので。西の家々からお返しいただいた麦のことを、正しく申し上げました。お礼を読み落とすわけにはまいりません」
私は一枚を、行が見えるように机へ置き直す。伯爵の細い緑の目が、一枚の字を見た。伯爵はそれ以上訊かない。机へ置いた私の紙を、手の甲で静かに押し戻す。
「礼を言われたのは、初めてだ」
私は押し戻された紙を受け取った。端をそっとなでる。
「冬の返済を確かめてから、お礼を述べるつもりで書いております。紙が違っても、それを忘れる理由にはなりませんわ」
「借りは返した。返したと王家が言うなら、俺も次を任せる。署名する」
書記官が白紙を置いた。伯爵の筆は短く動く。私の原稿に似せた字より、ずっと迷いのない名だ。書記官が紙へ顔を寄せる。
「二通目です。当主の字と、家の印をお預かりします」
聞いた言葉が、紙の擦れる音に重なる。私の書いた礼を受け取る人の顔は、下書きには残らない。今日は、その顔を見た。手袋に残る木の冷たさが薄れている。縫い目がかすかに揺れ、私は紙を押さえ直した。フリートヘルム様は青ざめた恋人の肩を抱えたまま、何も言わない。その手が、彼女の肩の布をきつく握っていた。
王妃付きの侍女が招待状を差し出す。家の印の乾く机を避け、私へ丁寧に礼をする。
「王妃様より。明後日、温室の茶会へお招きでございます。お返事をお持ちするよう、申しつかっております」
「伺いますとお伝えくださいませ。こちらに、同席される方のお名前もございますのね?」
侍女が頭を下げる。
「はい。皆様へのお招きは済んでおります。お茶のお作法も、王妃様のお席に合わせていただきます」
客の名を読んだ。令嬢六人、夫人二人、それから女当主三人。南の家と、ほかの家の名まで並ぶ。温室で座る顔が、紙から見えてくる。丁寧な招きの言葉より、並んだ名のほうが重い。
招待状の下には、流れるような王妃様の署名。




