3. 堤は三度切れた
約束の朝、書庫の窓を開けると、古い紙の匂いが動いた。書記官に出してもらった北の報告書を、返書の控えと並べる。年ごとの束には、私の知らない折り目が増えている。棚の隙間から射す光の中で、ほこりが細く舞っていた。
二年前の秋。太い筆で、『石は七段では足りぬ、九段要る』とある。去年、堤が切れたのは雪解けの後の十日目、二十日目、三十日目。日付をなぞってから、返書へ目を移す。ラウレンティウス様が束を押さえる。
「ご自身の下書きですから、全部覚えていらっしゃるはずです。自分の写した字も変わりません。なぜ、そこまで確かめるのです?」
「閣下の前で、一字でも違えたくありませんので。あの方が書かれた言葉も、私がお返しした言葉も。紙でも確かめて、お会いしたいのですわ」
「……違えていません。自分が写しましたから。曲がりへ移して九段。石代の半分は王家の倉からです。結びの字まで、そのままです」
控えの端をめくった。移すことを条件とする、という結びも同じだ。私の字の横に、書記官が写した細い字がある。その字は、私の下書きが終わるところまで続いている。私しかいないと思っていた紙に、私ではない字がある。
「ラウレンティウス様。……こんなに長い下書きまで。この細い字、六年、ずっと?」
「写すのが、仕事ですので」
揃えたはずの紙の端が、私の手元でずれた。直そうとしても、なかなか揃わない。あの細い字は、ずっとここにあったのに。
ラウレンティウス様と執務室へ戻ると、フリートヘルム様は小机、ベッティーナさんは茶卓にいる。そこへ辺境伯が治水の帳面を叩きつけた。大机のインクが揺れる。
「女に堤の何がわかる!」
「『女に堤の何がわかる』。――閣下の堤が去年三度切れたことなら、わかっておりますわ」
「……なぜそれを知っておる! 王都へは報告したが、娘の茶の話にした覚えはないぞ。誰に聞いた?」
扇を閉じると、乾いた音がした。紙になら書ける言葉が、「私」のところで喉に一度つかえる。手袋の縫い目を机に押しつけ、私は返書の控えを見た。
「閣下の報告書に返書を書いたのも、私ですもの」
声にした「私」が、耳に残る。こんなに短いのに、いつもの言葉より重い。帳面を押さえる辺境伯の手が止まった。太い首が、小机へ向く。
「お前の計画書、この娘のだったのか!」
フリートヘルム様が小机から身を乗り出した。机が小さくなっても、声まで小さくはならない。
「そ、それは……僕の考えを、彼女が書き写しただけです! 君だって、そのつもりで書いただろう。考えるのが僕、書くのが君だったはずだ!」
私は閉じた扇を机に置く。
「『考えるのが僕』。――では、今が出番ですわ。私の出番は、返書のときに済んでおりますので」
辺境伯が、小机の端を太い手で押さえる。
「では小僧、曲がりの石は何段だ? わしへ送った計画じゃ。考えた方なら、書いた方より詳しいじゃろう?」
フリートヘルム様の口が開いた。小机の紙へ目が落ち、上げかけた口元が固まる。答えはそこにはない。茶卓のベッティーナさんも、羽根を握ったまま動かない。私は返書の控えに手を添える。
「九段ですわ。閣下ご自身が、二年前の秋の報告書に『石は七段では足りぬ、九段要る』とお書きになりました。そこは、私の考えで変えてよいところではありませんもの」
「わしの書いたことを、そのまま……。あの長い報告の、石のくだりまで読んだのか?」
「はい。石のくだりも、雪解けの水のくだりも、最後の一行まで。曲がりを見落とせば、返書を書けませんもの」
古い絵図を机に広げた。閣下の報告書の言葉から写した川へ、手袋の先を置く。古い堤は曲がりの外側だ。水が正面から当たる線を、私は堤のところで止める。
「古い場所では、石を増やしても水を正面から受けます。積む高さだけでは、変わりません。上流の三本松の曲がりへ移すと申し上げたのは、この線のためですわ」
「二年前の小僧の机の上の絵図に、北の川がわかるかと思うたのじゃ。紙を動かすのとは違う。動かすのは石じゃ! 移せと言われて、はいと頷けるか?」
「机の上の絵図は、閣下の報告書から描きました。六年分の。川を知る閣下のお言葉を借りたのですわ。私が書いたからと、閣下のお言葉まで遠ざけないでくださいませ」
辺境伯が髭を引いた。帳面の角は、擦れて黒い。私の扇よりずっと重いものを、北から運んできた方だ。
「移せば、古い堤の石まで捨てる。わしの倉に、その余裕はない。王都は北の倉まで見ておるのか?」
「ですから、その返書では石代の半分を王家の倉から、と。移すことが条件でした。けれど閣下がお選びになったのは、ご自身の倉で、古い場所へ七段積むことです」
「わしの決めたことが、わしの畑を濡らしたと言いたいんじゃな?」
「畑を乾かすために、閣下のお言葉へ戻りたいのです。お返しした条件は変わりません。閣下が川の曲がりを記してくださったから、返書にもその曲がりを記したのですわ。どうぞ、その一行まで捨てないでくださいませ」
帳面が静かに閉じた。窓の外で鳩が一羽、羽音を立てて飛び立つ。さっきまで壁を打っていた怒鳴り声が、もうない。辺境伯は、川の線から目を離さない。
「わしの報告書を、最後まで読んだのは、お前が初めてじゃ」
太い声の端が、かすかにかすれる。返書の控えを押さえ直すと、紙が小さく鳴った。揺れる手を、今は隠せない。机の上には、私の字と閣下の字が並んでいる。
書記官が白紙の承認状を差し出した。辺境伯は川の線から承認状へ目を移し、名を書くための余白へ筆を向ける。
「署名してやる。ただし、来年の雪解けで堤が切れたら、撤回する」
「承りました。条件もお書きくださいませ。私の都合で、その一行を消すことはいたしません」
太い名の下に、家の印が落ちた。来年の雪解け、という字まで鮮やかだ。小机で、フリートヘルム様の目が逸れる。書記官が乾いた紙を持ち上げる。
「一通目です。条件の字も、そのまま保管します。太い字です。読み違えようがありません」
一通目。私の名へ向けて書かれた紙一枚を、書記官の手へ見送った。握りしめていた手を開く。手袋には、まだ折り目が残っている。
◇
夕方、机の上に清書した開会の辞を揃えた。窓からの光が、紙の縁を淡く染めている。フリートヘルム様は小机で羽根を弄んでいる。三枚のうち、二枚目は西の麦だ。三年前に王家の倉から借りた麦を、西の家々はこの冬までにすべて返した。その段の終わりには、王家のお礼の一行がある。
ベッティーナさんが、その紙に目を留めた。茶卓の手紙を置き、羽根を握り直す。あの花の香りが、紙の匂いより近くなる。彼女は明るい声を出す。
「明後日の原稿、わたしがお持ちしますね。侍女見習いのお仕事ですもの。折り目もつけずに、大事に運びますぅ。わたしだって、フリートヘルム様のお役に立ちたいんです」
「……お願いします。壇の脇の控えの間で、私にお渡しくださいませ。どうぞ、そのままの順で」
運ぶのは彼女の仕事だ。まだ疑う理由はない。フリートヘルム様の前で断れば、捨てられた女の当てつけにも見える。フリートヘルム様は羽根を弄ぶ手を止め、恋人へ笑いかける。彼女へ向けた口元だけが、柔らかくなる。
「ベッティーナは気が利くな。僕のことをよく見てくれている。紙にばかり向かっている君も、少しは彼女を見習えばいい」
「ええ。運んでいただけるのは、助かりますわ。壇まで届かなければ、私が書いた言葉も読んでいただけませんもの」
原稿を胸に抱えたベッティーナさんを、扉まで見送った。苺色の巻き髪の下に、私の言葉が隠れていく。




