2. 三行目の演説
翌朝、窓際の大机の真ん中に座った。六年、端だけ借りていた机だ。肘を置いても、誰の紙も押しのけずに済む。空いている場所を探さなくてよいのに、かえって手の置き場に迷った。朝の光が天板いっぱいに広がり、私の手袋の影だけがそこにある。
戸口で書記官が礼をする。背の高い痩せた体が折れ、首の後ろで束ねた栗色の髪が襟から離れる。運んできた承認状は二十四枚。家の名を書く場所だけが白い。机が広くなっても、ここは埋めてもらわなければならない。
「本日より、承認状の保管は自分が承ります。当主の字と家の印を確かめます。書き損じも、印のかすれも見落としません」
「ありがとうございます。……昨日の束を陛下へ運んでくださったのは、あなたですのね。私の下書きまで、お持ちに? 清書をお待ちにならずに?」
「字が、殿下のものではありませんでしたので。届くたびに、お見せしました。下書きでも、誰の字かは変わりません」
眼鏡の奥の焦げ茶の目が、私の書付へ向く。薄い唇は動かず、インクの染みた指だけが紙の端を揃える。書記官の名はラウレンティウス。書付を伏せる癖が、まだ私の手に残っている。紙の角が小さく震える。私は伏せかけた書付を、机の上で止めた。
「……字しか、ご覧にならないのですね。どなたの名で読まれたかは、気になりませんの?」
「字は、嘘をつきませんので。自分には、そちらのほうが確かです」
伏せるのをやめて、紙を置く。見られているのに、隠さなくてよい。机の真ん中より、こちらのほうがまだ慣れない。
王命の写しも机にある。フリートヘルム様は補佐官、ベッティーナさんは侍女見習い。彼は毎日、命じられた紙を運び、読み、写す。背けば継承権を返す。彼女が背けば男爵家の咎めになる。私には、どちらも辞めさせられない。
鐘が二つ鳴ってから、当の補佐官が戸を開けた。恋人を先に通す手つきは、今日も丁寧だ。扉の脇の小机を見るなり、その手が止まる。
「なぜ僕が、扉の脇なんだ! そこは人が入るたびに風が当たる。君が座っているのが、僕の机だろう?」
「『僕の机』。――今朝からは、私の机ですわ。補佐官の机は、届いた紙をすぐ受け取れる場所にございます」
「……っ、覚えていろ。一年後には、その椅子に戻る。僕がここに座っていたことを、君は忘れるなよ!」
「忘れておりませんわ。ですから、机の端の狭さも、よく存じております」
小机の椅子が乱暴に引かれた。床を擦る音ばかりが、広い部屋の真ん中まで届く。
ベッティーナさんは壁際の茶卓へ腰を下ろす。香水の瓶を傾け、インクに垂らした。羽根を浸すと、夜会の袖と同じ花の香りが広がる。宛名はフリートヘルム様らしい。すぐそこにいる方へ、手紙を書くのだ。私は茶卓に目を留める。
「ベッティーナさん、それは、お茶の支度に使うものですの?」
「お茶の時間までは、わたしの時間ですもの。お手紙は大切ですぅ。フリートヘルム様だって、楽しみにしてくださいます。すぐそばにいても、書きたいことはあるんです」
瓶の栓が閉まった。花の香りに隠れて、インクの匂いはもうわからない。机の真ん中にいても、部屋じゅう私の好きにはならない。彼女の紙には宛名がある。こちらの白紙は、当主の名を待つばかりだ。
春の議会の開会は近い。昨春の開会の辞の下書き三枚を、書記官に小机へ運んでもらう。今年の辞を書く前に、諸侯が何を聞いたか確かめたい。フリートヘルム様は紙を見るより先に口を尖らせた。
「僕に読む必要はない。去年は拍手が鳴りやまなかったんだ。諸侯は僕の言葉を覚えている。君だって聞いていたろう?」
「ええ、拍手は私も嬉しかったですわ。ですから、同じ方々へ、同じお話を重ねないためにお読みいただきたいのです。ご自分の声で、お確かめくださいませ」
「読めるに決まっているだろう、僕の演説だぞ!」
紙を持つ手が余白を折る。私は扇を閉じ、机へ置いた。
「どうぞ。私も、最後まで聞かせていただきますわ」
「……『治水とは、すなわち』……『すなわち』……」
大きかった声が、三行目の途中で細くなる。私は、折れた余白の脇に続く小さな字を見た。
「三行目です、フリートヘルム様。昨年の春、拍手をいただいたところですわ」
彼の目が紙から上がる。折った余白を押さえる手は、そのままだ。
「字が読みにくいんだ! 誰の字だ、これは?」
「それ、私の字です」
言えた。伏せずに置いた字が、窓の光に浮く。書いたのが誰かを答えるだけなのに、喉の奥が痛い。手袋の縫い目を机の縁へ押しつけた。書記官は私の顔ではなく、その行を見ている。
「あなたの字は、殿下の字より百倍読みやすい」
茶卓でベッティーナさんがくすっと笑い、すぐに手紙で口を隠す。フリートヘルム様は紙を下げた。
「笑うな、ベッティーナ! 君まで、僕をそんな目で見るな! 僕が読めないのが、そんなにおかしいか?」
「わ、わたしは……お手紙のことですぅ。フリートヘルム様を笑ったんじゃありません。そんなふうに怒らないでください……わたし、困ってしまいます」
目元を手紙で隠す彼女の前で、書記官は折れた余白を伸ばす。書記官の筆の跡は、私の下書きには無い。
「昨年は、自分が清書を三度読みました。読まれた字は、こちらにすべてあります。折っても、字は読みやすくなりません」
フリートヘルム様が椅子を鳴らして腰を浮かせた。紙は放さない。
「よ、余計なことを言うな! もういい!」
その時、扉が勢いよく開いた――。
二つに結った金色のおさげが跳ねる。ティルザ様が家庭教師から逃げてきたと宣言し、私の机へ駆け寄った。
「兄上より、お姉様が王のほうがいい」
小机から、フリートヘルム様の声が跳ね返る。
「ティルザ! 口を慎め。お前は勉強へ戻れ! 兄に向かって、よくもそんなことを!」
くりくりした青い目が兄を見上げる。鼻のそばかすまで得意げだ。十にしては高い背丈で、ティルザ様は小机の紙を覗き込んだ。
「だって兄上、三行目で詰まってたもん。廊下まで聞こえたよ。あたし、ちゃんと自分で本を読むでしょ! 家庭教師に続きを言ってもらわないよ!」
フリートヘルム様の手の中で紙が鳴る。追い返す言葉まで詰まった。剣を握るときには広く見えた手が、紙の上で行き場を探している。ティルザ様の笑いにつられそうになり、私は扇を押さえる。
「ティルザ様。家庭教師の先生が、きっと探していらっしゃいますわ。先生にも、今のご自慢を聞いていただいては?」
「お姉様のお部屋のほうが、勉強になるもん! 兄上、読めない字って怒鳴ると読めるようになるの?」
◇
昼前、扉の外の怒鳴り声で筆が止まった。近衛を肩で押しのけ、北の辺境伯ゴーデハルトが入ってくる。刈り込んだ灰色の髪に、外の風が残っている。熊のような髭と、樽のような胸。春の議会へ来た諸侯の中でも大きな肩が、扉いっぱいに迫る。
「女の王など認めん!」
私は机の扇を取り上げる。紙の端から手を離し、辺境伯の顔を見た。
「『女の王など認めん』。――では、何をお見せすれば、認めていただけますの?」
辺境伯の鋭い黒い目が私を睨む。扇は開かないまま、手の中にある。辺境伯は拳を大机へ突きつけた。
「明日、わしの堤の話をしてみろ。答えられなんだら、北はお前に一筆も書かん。王都の机から川が見えるものか!」
小机でフリートヘルム様が身を乗り出す。
「辺境伯、もっと言ってやってください。書類を並べただけで国を治めるつもりなんです! 僕が言っても、ジーグリットは聞かないんだ!」
辺境伯が小机へ顔を向ける。背筋を伸ばしたフリートヘルム様を、今度は辺境伯が睨む。
「小僧は黙っておれ」
扉が閉まった。言い返す前に、返事をする場所まで塞がれる。開きかけた扇を、私はそのまま手の中で握っていた。窓の硝子が遅れて震え、やがて静まる。私は大机の下書きへ目を戻した。折れた余白へ伸びる、三行目の「すなわち」の払い。




