1. 王妃の器ではない
シャンデリアの光が扇の骨を滑る。楽の音を踏み越えて、フリートヘルム殿下が声を張った。
「ジーグリット・ローエンシュタイン。君は王妃の器ではない。婚約を破棄する」
卒業夜会の大広間。王太子フリートヘルム殿下の腕には、頬を染めた男爵令嬢ベッティーナ。
弓を引く音が止まった。殿下の蜂蜜色の巻き毛だけが、明るい光の下で揺れている。笑い慣れた口元は固く結ばれ、私の返事を待つ。ベッティーナさんの苺色の巻き髪が、殿下の袖を撫でる。えくぼの浮いた丸い頬を寄せ、小柄な体が肩の陰に収まる。袖から甘い花の香りが届く。私の使うインクには無い匂いだ。
卒業生の輪の向こうで、諸侯の扇も止まる。春の議会のために集まった方々まで、今夜は私の返事を待っている。磨かれた床に影が重なり、立っている場所だけが狭くなる。殿下は顎を上げた。
「君には可愛げがない! 僕が話しているのに、その顔だ。ベッティーナは、僕といるだけで笑うんだぞ」
「『可愛げがない』。――はい、可愛げで書類は片付きませんので。笑顔のまま積んでおきましょうか?」
「その言い方だ、それが嫌なんだ! 君といると、何もかも間違いだと言われている気がする。僕は君の婚約者で、君の生徒じゃない!」
扇の陰で唇を結ぶ。今夜の祝辞も、袖を汚しながら直したものだ。殿下が読んだ清書に私の名はなく、汚れもない。綺麗に仕上げるほど、書いた私だけが消える。
「では、どの言い方なら、殿下は読んでくださいましたの? 机にお届けした紙を開いて、私にひと言お尋ねくだされば、それでよかったのですわ」
「読む必要がどこにある! 君の紙は、いつも正しいだけだ! 僕が欲しかったのは、そんなものじゃない!」
正しいだけ。扇を持つ手から力が抜けた。清書の端を揃えるときのように、扇の骨の並びを確かめる。どこも曲がっていない。それなのに、開いた扇をうまく持てない。
「それさえ、お邪魔でしたの? 私、殿下のお役に立てていることくらいは、喜んでよいと思っておりましたのに」
ベッティーナさんが殿下の腕を引いた。潤んだ茶色の目を上げ、私から隠れるように肩を寄せる。握った袖にはしわが寄り、笑みの端が小さく揺れている。
「フリートヘルム様に、そんな言い方……ひどいですぅ。今夜くらい、難しいお話はやめてあげてください。わたし、フリートヘルム様の困ったお顔は見たくありません」
殿下が彼女を背に庇う。責められてもいない彼女の前で、靴音だけが強く響いた。
「もういい! ベッティーナにまで当たるな。君の言い分はもう聞いた。僕が決めたことだ!」
その背中だけは、今夜の誰より堂々としている。私の言葉を遮るためには、ちゃんと前へ出てくださるらしい。紙なら返事を書ける。けれど、扇の裏には白い絹しかない。
私は扇を閉じ、言われた言葉をそのまま繰り返した。
「『王妃の器ではない』。――承りました」
ざわめきが戻る。握り直した扇の象牙が、手袋越しに痛い。
この六年、殿下の演説も、治水の計画書も、隣国への親書も、書いたのはすべて私だった。
手袋の中で指先が冷える。紙なら端を押さえれば震えは隠せる。今夜は、押さえる紙もない。
口癖は「殿下のお考えです」。手柄を自分の名で出したことは、一度もない。
一礼して、扇を下ろした。背中に視線が刺さる。シャンデリアの火が小さく揺れる。楽の音はまだ戻らない。六年分の紙を抱えるより、この扇が重い。書く場所を失っても、袖のインクは落ちてくれない。
◇
私室の戸を近衛が叩いた。まだ朝の鐘は鳴っていない。戸の向こうで、近衛が王命を告げる。
「王命です。朝の鐘のうちに、謁見の間へお越しください」
「……私に、ですの?」
戸を開けると、近衛は目を伏せたまま、短く頷く。
「はい。ローエンシュタイン嬢おひとりで、と承っております」
鏡の前で侍女が私の髪を留める。結い上げた黒髪の下で、翡翠色の目は腫れてもいない。切れ長の目も細い顎も、表情の動かない涼しい顔のままだ。背の高い細い体が、侍女の手に合わせて背筋を伸ばす。泣けなかった。鏡の顔へ閉じた扇を重ねると、顔だけが隠れる。夜通し握った骨の跡は、掌に残ったままだ。
王宮の石の床は薄い靴底にも冷たい。謁見の間へ入ると、玉座の脇に釣り竿が立っている。薄くなった白髪を掻く陛下は、日に焼けたしわだらけの顔で、痩せた背を少し丸めている。その段の下では、書記官が紐でまとめた紙の束を抱えていた。見覚えのある紙の端から目を離せない。背後で殿下の靴音が止まる。
翌朝。謁見の間に呼び出された私の前で、国王陛下は欠伸まじりに言った。
「王妃の器でないなら、王の器だろう。余の次は、そなたが継げ」
「……陛下?」
陛下は書記官へ顎を向ける。束の端が、腕からこぼれそうだ。
「何通あった?」
書記官が束を抱え直した。
「千二百四十通です、陛下」
結び目の下に、見慣れた字がある。折り目の端に、私の筆の跳ね。清書に移すときに消えるはずの、小さな癖まで。
六年分の下書きの束を、陛下はすべて読んでいらしたのだ。
陛下が紐を解いた。眠たげな青い目が、治水の計画書を追う。折り目には開き直した跡があり、角は丸く擦れている。捨てるために括った束だと思っていたのに。陛下は、私の小さな直しのところで紙を押さえる。
「堤を上流へ移す。そなたは、ここまで書いておる。石を積むだけでは足りぬ理由も、倉から出す条件もな。直したところにも、ちゃんと理由がある。そなたが考え、そなたが書いた紙だ」
私の口から、考えるより先にいつもの返事がこぼれる。
「……それは、殿下のお考えです」
「嘘をつけ。あやつの考えなら、余はとうに釣りに行っておる。書いた者が、その下書きまで譲ってどうする?」
扇の骨が鳴った。力を緩めても止まらない。陛下は紙を置き、私の手へ目を移す。
「……よう書けておった。六年、ご苦労だったな」
絹の向こうで骨が細かく擦れる。誰も読まないと思っていた紙の端を、陛下の手が押さえている。私の名のない紙を、私へ向けて。扇を持ち替えた。喉の奥が熱い。今は顔の前まで上げられない。泣いてしまえば、この字が見えなくなる。乾いたインクの匂いが、紙の端からまっすぐ私へ届く。
殿下が前へ出た。声だけは夜会と同じ大きさで、私と紙の束の間を遮る。
「父上! なぜ僕ではなく、この女が! 僕より、この女の紙を信じるというのですか?」
「それからフリートヘルム。今日からお前は、この子の補佐官だ。お前がやらせていた仕事を、今度はお前がやれ」
戴冠は一年後。そのためには、諸侯二十四家のうち十三家の署名が要る。
陛下が背を起こした。今度の声は、石の床まで響く。
「王家の血を引く成年なら、余は指名できる。祖母が王の娘であるそなたもだ。順位第一位のお前でない者には、諸侯の承認が要る。余は一年後に退位する。早く釣りに行きたい。承認が集まらねば、王冠は順位どおりお前に戻る」
「補佐官など、お断りです! 僕が君の書類を運べというのか! 君の言いつけを待って、君の前に立てと?」
「断るなら継承権を返せ。戻る先が無くなるぞ。男爵の娘も、この子の執務室で侍女見習いだ。この子が妃になれば、この子の手は王家に残った。お前が捨てたから、余が拾う。王命を受けるなら、臣下の礼をとれ」
陛下の声で、殿下の靴が止まる。殿下は歯を食いしばった。父の前で顔を上げたまま、私の前に跪く。剣で鍛えた肩がこわばり、片膝の下で衣の裾が浮く。
六年、私はこの方の机の端で筆を走らせてきた。その方の頭が、いま私の胸より低い。勝ったとは思えない。紙の束はここにある。私の字も、消えていない。ただ、膝の角度が目に入る。
「殿下。――いえ、フリートヘルム様。膝の位置が、少し高うございます」
フリートヘルム様の膝が下がった。見上げる澄んだ青い目に、閉じた私の扇が映る。その唇が、まだ言葉を探している。
「……王妃の器ではないと捨てた女に、膝を折れというのか? 君は、それで満足なのか?」
「『王妃の器ではない』? ええ。王の器でしたので」




