第8話 祝われる側は、初めてでございます
卵は5つ割ってようやく1つが無事だった。
厨房の作業台に殻の破片が散っている。年かさの料理番が、わたくしの手元をじっと見ていた。
聞いたのは昨夜のことだ。あさって、と下働きの子が言い、ティルダが言うなと答えた。つまり動ける日は今日きりで、わたくしは夜が明けるのを待って階下へ降りた。
「お嬢様。もっと、こう、かつんと」
「かつん」
「縁ではなく、平らなところに」
わたくしは6つ目を平らなところに当てた。今度は割れずに、代わりに手の中で潰れた。
「難しゅうございますね」
「そりゃあ、慣れておられませんからね」
料理番は笑っていた。嘲る笑いではない。先日、殿下が実演した6つ目の型に近いけれど、口の端の上がり方がもう少し柔らかい。書いておきたいのに、両手が卵で塞がっている。
菓子は蜂蜜と乾した果実を入れた焼き菓子にした。ティルダが盆に残った菓子の皿を運ぶとき、いつも指に力が入るのを見ていたからだ。あれのどれが好きなのかは分からなかったので料理番に選ばせた。
粉を篩う。卵を混ぜる。蜂蜜を垂らす分量だけは正確にできたが、混ぜ方に癖があるらしく、生地が均一にならない。手首をこう回すのだと教わって、そのとおりに回すと、今度は鉢が滑って卓から落ちかけた。
竈の熱で額に汗が浮く。厨房の暑さは書斎とも広間とも違って、空気そのものが重い。ここで毎日働く者たちの型が、少し分かった気がした。
殿下は作業台の向こうに肘をついて、こちらを眺めている。
「楽しそうだね」
卵を6つ潰した者に向ける言葉ではない。わたくしは首を横に振った。手は粉だらけで、袖には蜂蜜がついている。
「じゃあ、なんで自分で焼いてるの」
「厨房の者に焼かせると、ティルダに知られます」
「なるほど。……ふうん」
彼はそれきり何も言わなかった。ただ、口の端は上がったままだった。
贈り物は昼までに決めなければならなかった。
宝石は駄目だ。侍女が身につければ出所を疑われる。衣も駄目で、休みの日に着るには目立ちすぎる。菓子は当日に出す。
生地を寝かせているあいだに、12冊を繰ってティルダの記述だけを拾い出した。笑った回数。泣いた回数。困った顔の型。書き溜めた頁は多いのに、彼女が何を欲しがっているのかを書いた行は一つもなかった。
わたくしは12年、彼女の顔だけを見ていたことになる。
結局わたくしが選んだのは帳面だった。
午後になってから、王都の南の紙屋まで殿下が馬車を出した。店の主人が並べた見本のうち、いちばん厚い紙を綴じたものを1冊。表紙は焦げ茶で、角に布が当ててある。わたくしの12冊と同じ作りだ。
「それ、贈り物?」
「はい」
「うーん。女の子がもらって喜ぶやつ、ぼくの知る限りではないなあ」
「書くと、忘れません」
殿下がこちらを見た。見本の紙をめくる手を置いて、こちらの顔のほうを。
店の主人が奥へ引っ込んで、店先が急に静かになる。
「忘れないほうがいいことも、忘れたいことも、両方書けます。ティルダは字が書けますので」
「……ああ」
彼は口を手で覆って、それから天井を向いた。肩が一度上がって、そのまま下りない。
「うん。それにしなよ」
当日の朝、わたくしはいつもより早く目を覚ました。
菓子は厨房の戸棚の奥に隠してある。帳面は布に包んで机の引き出しだ。ティルダが起こしに来る前に着替えを済ませて、階下へ降りた。
段取りは昨夜のうちに書いた。朝食のあとに部屋へ呼び、皿を出してから包みを渡す。渡すときに言う言葉も決めてある。今日はあなたの日です、と。
廊下の空気がいつもと違った。
甘い匂いがする。焼いた麦と煮た果実。それに混じって、花のにおいも。庭の花は昨日まで咲いていたはずのものだ。
角を曲がって、足が止まった。
広間の梁に布が渡してあった。白と薄い青。柱には庭の花が結わえつけてあって、卓の上には焼き菓子の山と、蜜蝋の燭台が並んでいる。
使用人が全員そこにいた。厨房の者も庭師も玄関番も洗濯係も。31人が扉のほうを向いて立っている。
わたくしを見て、全員が礼をした。
「お嬢様。17のお誕生日、おめでとうございます」
声が揃っていた。何度も合わせた声だ。
わたくしは扉のところに立ったまま、その光景を上から下まで確認した。それから、いちばん前に立っているティルダを見た。
「ティルダ」
「はい」
「本日は、あなたの誕生日では」
広間が静まった。
ティルダの目が大きくなる。息を吸って、吐きそこねて、口の形だけが動いた。
「……なぜ、ご存じで」
「一昨日の夜、台所で聞きました」
「聞いて、おられた」
「はい。それで、これを」
わたくしは厨房の者に合図をして、隠してあった皿を持ってこさせた。焼き菓子は形が不揃いで、片側だけ焦げている。それを卓の端に置いて、包みをティルダに差し出した。
包みが開かれるのを31人が見ていた。
焦げ茶の帳面が出てくる。ティルダはそれを両手で持って、しばらく動かなかった。
「同じ日でございます」
年かさの料理番が後ろから言った。
「ティルダの生まれた日と、お嬢様の生まれた日。同じ日なんでございますよ」
「では、なぜ」
「この子が、譲らないんでございます。12年ずっと。この日は自分の日ではない、お嬢様の日だと」
ティルダの肩が震えはじめた。
帳面を胸に抱えて、そのまま床にしゃがみ込む。誰かが慌てて椅子を持ってきた。
「わたし、お嬢様がお生まれになった日に、屋敷に来たのです」
声が途切れる。
「母が乳母に呼ばれて、わたしも連れられて。それで、同じ日だと知って、それからずっと」
「泣かなくてよいのです」
「泣いておりません」
膝に開かれた新しい帳面の、まっさらな1枚目。そこに水の落ちた跡が二つ、三つと増えていく。
わたくしはそれを指さした。
「泣いておりません……!」
広間のどこかで、洗濯係が洟をすすった。それが伝染して、下働きの子が袖で顔を拭い、庭師が上を向く。
わたくしは全員の顔を順に見た。
31人。名前も顔の型も12冊に書いてある。書いてあるのに、今この広間に並んでいる顔のどれ一つとして、記録した型に当てはまらない。
わたくしは自分の胸に手を当てた。
温かい。
耳でも指でもなく、胸の真ん中が、内側から温められている。息が深くなって、肩の力が抜けていく。喉の奥が締まっているのにそれは苦しくない。
指先まで血が通っている感じがする。こわいのときとちょうど逆だ。
「殿下」
扉の陰から覗いていた殿下が顔を出した。
「はいはい」
「胸が温かいです。痛みはありません。呼吸は深く、脈は速くありません」
「うん」
「これは何ですか」
「うれしい」
彼は続きを言わずに、扉の枠にもたれた。
「ねえ、こういうの、何回目?」
「祝われる側は、初めてでございます」
「17年、誰もやらなかったのか」
「例年、この日は何も起きませんでした」
殿下は卓の上の焼き菓子を一つ取って、焦げた側から食べた。
そのとき、階段の上に人の気配があった。
見上げると母が立っていた。
手すりに手をかけて、広間を見下ろしている。口が開きかけて、そこで止まる。母はしばらくそのまま動かず、それから、来たときと同じ静かさで階段を上っていった。
絹の擦れる音が遠ざかる。踵を先に置く、あの歩き方だ。
広間の誰も母を見なかった。見ないようにしているのだと分かるまでに、少し時間がかかった。
机の上で帳面を開く。
『うれしい——習得』
書いてから、いつもの一行を書き足そうとした。
わたくし自身のことでは出ない、ティルダのことでは出た。ここ数日、感情が出るたびに同じ形で書いてきた。
けれど今日は鉛筆が進まなかった。
これはティルダのために出たのか。それとも祝われたわたくし自身のことで出たのか。区別する方法が思いつかない。
わたくしはその行を空けたまま、頁を閉じた。
窓の外で、砂利を踏む音がした。
広間のざわめきがその音で止まる。誰かが窓のほうを見て、それから慌てて布の飾りを外しにかかった。料理番が卓の菓子を下げるよう指示を出している。花を結わえた紐を解く手がどれも速い。
門から玄関へ、馬車が入ってくるところだった。黒い車体に、扉の紋章が金で入っている。オルコット家の紋だ。父の馬車ではない。
「ティルダ。あれはどなたの馬車ですか」
彼女は窓の外を見た。
顔から色が引いていく。帳面を抱えたままの手が下がった。
「……旦那様の、弟君でございます」
胸の温かさはまだ残っている。
残ったまま、指の先だけがゆっくり冷えていった。




