第9話 燃えたのは、いちばん古い帳面
叔父は玄関で両手を広げてわたくしを迎えた。
「リディア。大きくなったね」
背が高い。父より頭半分ほど高く、肩の幅も広い。声は低いのに柔らかくて、語尾のところで少し上がる。帳面のどの型にも当てはまらない話し方だった。
「ご無沙汰しております、叔父様」
「12年ぶりだ。覚えているかい」
「5つのころに、一度」
「そう。あのときは大勢の医者を呼んだね。かわいそうに」
かわいそうにと彼は言った。眉が下がって、目尻に皺が寄る。悲しむ人の型と一致している。欠けているところが1つもない。それを書き留める理由は、思いつかなかった。
「その帳面かい。噂は聞いているよ」
「はい」
「見せてくれるかな」
わたくしは胸に抱えた。
そうしようと決めたわけではない。腕が勝手に動いて、帳面を体のほうへ引き寄せていた。
叔父の手が、帳面の背に届く手前で宙に浮いた。
浮かせたまま、彼は微笑む。
「賢いね」
そう言って手を引いて、父の待つ書斎へ歩いていった。廊下の奥で扉が閉まる。
ティルダは玄関の隅で頭を下げたまま、叔父の足音が消えるまで一度も顔を上げなかった。広間の飾りは全部外されていて、卓の上には何も残っていない。
「ティルダ」
「はい」
「あの方が、こわいのですか」
彼女は顔を上げなかった。答えの代わりに、床の一点を見たまま長いこと黙っていた。
その夜、父から伝言が来た。
明後日の茶会に、帳面を12冊すべて持参すること。
伝言を持ってきたのは執事で、読み上げたあと、いつもの倍の時間そこに立っていた。理由を聞いても答えなかった。
殿下はその日から王城に留め置かれていた。お戻りは茶会の日と聞いております、と執事が言う。使いは出した。返事は来なかった。
雨だった。
門の前で、ティルダが12冊を抱えて馬車を降りた。
「ここまででございます」
「はい」
「門の内には、入れませんので」
彼女は帳面をわたくしの腕に移した。重い。5つのころからの紙は思っているより厚く、抱えると顎の下まで届く。
雨が彼女の肩を濡らしていく。傘はわたくしのほうに差し出されていた。
「お帰りまで、ここにおります」
「濡れます」
「濡れます」
同じ言葉が返ってきた。それきり、彼女は動かなかった。
ベルナール伯爵家の庭に張られた天幕は使われず、茶会は広間に移された。湿気を抜くために炉に火が入っている。初夏の雨の日には、この家ではそうするらしい。
卓の上に、わたくしの12冊が積まれた。
「これが、噂の」
ベルナール伯が1冊目を取り上げて、めくった。指が湿った音を立てる。
「……なんという」
「何が書いてあるのですか」
モルガン侯爵が身を乗り出した。狩りの絵の下で見た顔と同じだ。あの夜と違うのは、今日は杯を持っていないことだけ。
「人の顔でございます。眉の角度、口の端、瞬きの回数。父の顔が7つ、母の顔が4つ。それから」
「もういい」
アルヴィン様が遮った。
彼は立ち上がって、卓を回ってわたくしの正面に来た。眉のあいだの皺はあの夜より深い。
「オルコット嬢」
呼び方が変わっている。わたくしは頷いた。
「私は、婚約を破棄する」
「承知いたしました」
「……そう来るのか」
「他に、どのようにお答えすればよろしいですか」
「泣くとか、なぜと聞くとか、あるだろう」
「泣けません」
広間が静かになった。
炉の薪が音を立てて崩れる。ヴィオレット嬢が侯爵の後ろで扇を開いて、その陰から声を出した。
「お可哀想に。オルコット様は、悲しむこともおできにならないのですわ」
声が震えている。目は震えていない。
わたくしは鉛筆を抜いた。
新しい頁を開く。今日は書くことが多い。ベルナール伯のめくり方、侯爵の身の乗り出し方、アルヴィン様の呼び方が変わった瞬間の間の取り方。
芯が紙を走る音だけが広間に響いた。
「——やめろ」
アルヴィン様の声が裏返っていた。
「今、書いているのか。この場で」
「忘れてしまいますので」
「気味が悪いんだよ!」
彼の手が伸びてきた。
わたくしは帳面を引いた。彼はそれを追って、卓に積んであった12冊のほうを掴む。山が崩れた。表紙の擦り切れた1冊目が、卓の縁を滑って——
炉の中へ落ちた。
音はしなかった。
紙が炎に触れて、縁のほうから色を変えていく。5つのころの字だ。線が曲がって、綴りを間違えて、母の口元の絵を描いたところだけ何度も書き直してある。
わたくしの手が火の中に入っていた。
熱いという感覚が来る前に、誰かが後ろから腕を引いた。父だった。父の手だと分かったのは、指の力が強すぎて骨が軋んだからだ。
「リディア!」
引き剥がされたわたくしの目の前で、1冊目が形を失っていく。
背表紙が反り返って、開いて、灰になる。母が微笑んでいた顔の記録はその頁にしかない。写しは作っていない。作る必要があると思ったことがない。
わたくしは膝をついた。
床は硬い。喉の奥から音が出て、それが自分の声だと気づくのに少しかかった。
「熱い」
指の先が焼けている。皮が縮んで、赤くなって、痛みは遅れてやってきた。ヴィオレット嬢が悲鳴を上げて、侍女が水を運んでくる。
その騒ぎの向こうで叔父の声がした。
「兄上」
父が振り返る。
「リディアには、公爵家は継げますまい」
静かな声だった。責める調子はどこにもない。むしろ、いたわるような言い方だった。
「12年、わたしはずっと申し上げてきました。この子には無理だと。今日のこれを見ても、まだそうお思いになれますか」
父は何も言わなかった。
わたくしは灰を見ていた。
炉の底で、まだ赤いところが残っている。あそこにあったものはもう戻らない。もう一度書けばいいと思って、書けないことに気づいた。5つのわたくしはもういない。あの字はもう書けない。
母が微笑む顔を、わたくしはもう思い出せない。思い出せなくなったから書いたのだ。書いたものが消えれば、残るものは何もない。
残りの11冊は無事だった。無事だからこそ、欠けている場所がはっきり分かる。
胸の内側が熱くなる。指の火傷とは別の熱だ。喉が塞がって、息を吸うたびに肋が痛む。歯を食いしばっていることに自分で気づいた。
顎が震えている。
止めようとして、止まらない。
そのとき、広間の窓が外側から開いた。
雨と一緒に、金の髪の男が入ってきた。上着から水が滴って、床に線を引く。ベルナール伯が椅子を倒して立ち上がった。
殿下はまっすぐわたくしのところへ来て、膝をついた。
濡れた手がわたくしの火傷した手を持ち上げる。それから、わたくしの顔を見た。
「……その顔、初めて見た」
「殿下」
「うん」
「胸が熱くて、顎が震えます。指も震えます。呼吸が乱れております」
「うん」
「これは、何ですか」
殿下は炉のほうを一度見た。灰の色を確かめて、それから、噛みしめるように言った。
「くやしい、っていうんだよ」
一度だけ耳にした語だ。殿下が床に額をつけて動かなくなった朝、ティルダがそう言った。
あのとき書き損ねた語が、こんな形で戻ってくるとは思っていなかった。
「なくしたものを、なくす前に戻したいときに出る」
わたくしは灰から目を離せなかった。
「取り返せますか」
「……取り返せない」
「では、この感情は何の役に立つのですか」
殿下は答えなかった。
わたくしの手を握ったまま、しばらく黙っていた。彼の指のほうが火傷したわたくしの指より冷たい。
背後で、婚約破棄の書面が読み上げられている。両家の当主が署名し、立会人として侯爵と叔父が名を連ねた。父の羽根ペンは今日は止まらなかった。
帰りの支度が整うころには、雨が小降りになっていた。
わたくしは玄関の柱に寄りかかって、帳面を開いた。震える手で、火傷していないほうの指に鉛筆を挟む。
『くやしい——習得』
字が曲がった。
そこへ、足音が近づいてきた。
「かわいそうに」
叔父だった。
大きな手がわたくしの頭にのる。ゆっくりと二度撫でた。父にも母にもされたことのない触れ方だった。
「あれは、もう戻らないね」
馬車が門を出ていく。車輪が水を跳ねる音が、だんだん遠くなった。
わたくしは撫でられた場所に手を当てた。
温かさはもう残っていない。




