第10話 きらい、と書ける日が来るなんて
指の火傷は10日で治った。噂のほうは治らなかった。
机の上の帳面は11冊になっている。それでもわたくしは、いまも12冊と数えている。2冊目を1冊目に繰り上げると、記録の年がひとつずつ狂うからだ。
だから1冊目は失われたという状態でそこにある。空いた場所は空いたままにした。
その空白を見るたび、胸の奥がざらつく。名前はまだない。
夏が来た。
朝から石の廊下まで温くて、窓を開けると熱が流れ込んでくる。庭の紫陽花は色が抜けて、庭師が根元に藁を敷いていた。
「今日は暑さで取る」
殿下は窓枠に腰かけたまま、扇であおいでいる。わたくしのぶんの扇も持ってきたらしい。
「人はね、暑いと苛々するんだよ。汗が首を伝うとね、こう、じわっと腹が立つ」
「なるほど」
「だから実験1。この部屋、締め切る」
窓が閉まり、帳が下ろされ、暖炉に火まで入れられた。真夏の暖炉である。使用人が薪を運んできたときの顔は、書き留めておく価値があった。
15分ほどで、室温は不快な高さに達した。
殿下の前髪が額に貼りついて、襟のあたりが色を変えている。ティルダは扉の外に避難させた。人を巻き込む実験ではないと判断したからだ。
「どう!」
「汗が出ました」
「うん」
「塩を摂らなければなりません。ティルダ、水と塩を」
「そこ!?」
「脱水は死にます」
殿下は帳を引きちぎる勢いで窓を開けた。彼のほうが先に音を上げた形になる。
外の空気が入ってくると、汗の引いていく順番がよく分かった。首、こめかみ、背中。そのどこにも苛立ちらしきものは通らない。
『暑さは苛立ちの原因になるらしい。少なくともわたくしには効かない』
書いているあいだ、殿下は扇の先でわたくしの帳面を指していた。
指されても、出ないものは出ない。
「なんで効かないんだよ」
「先に困ることを考えてしまうからかと存じます。暑いと厨房の氷が減ります。氷が減ると魚が傷みます。魚が傷むと使用人の食事が落ちます」
「そこまでいく!?」
殿下は床に座り込んで、扇で自分の顔をあおいだ。あおぎ方が乱暴で、風より腕の音のほうが大きい。
その日の午後、モルガン侯爵邸から園遊会の招待が届いた。
婚約が解けてから、招待の数は7分の1になっている。数えたので間違いない。残ったのはこれ1通だけだった。
父はその紙について何も聞かなかった。母は招待状を見もしなかった。あの日の広間から、二人ともわたくしと同じ卓につかない。
「行くの」
「行きます」
「なんで」
「招かれた場に出ないと、噂が確定します」
「噂?」
わたくしは帳面の該当の頁を出して、書き溜めたものを読み上げた。
「オルコットの失敗作が火に手を入れた。帳面を焼かれて気が触れた。婚約を破棄されたのは当然である。……あと3つございますが、読み上げますか」
殿下があおぐ手を速めた。それから、聞かなくていい、と短く言った。
侯爵邸の庭には天幕が張られていた。噴水の水は温く、蜜蜂が卓の菓子に寄ってくる。
門を入ってすぐの生垣の内側に、ティルダを待たせた。今日は連れて入れる場ではない。彼女は何も言わずに日陰へ移って、そこから動かなかった。
わたくしが天幕に入ると、話し声の高さがそろって下がった。
扇の開く音が少し遅れて3つ。誰も挨拶に来ない。給仕だけが盆を持って近づいてきて、杯を渡すときに手が震えていた。あの夜のことを知っているのだろう。
殿下も招かれていた。もっとも庭の反対の端でモルガン侯爵に捕まっている。侯爵が話し、殿下が頷き、また侯爵が話す。あの位置からこちらは見えない。
「まあ、オルコット様」
ヴィオレット嬢が扇を開いた。今日の扇は白い。夏の色だ。
「お指はもうよろしいの? わたくし、あの日から心配で夜も眠れませんでしたのよ」
「治りました」
「よかった。本当に、よかったですわ」
彼女の後ろで、取り巻きの令嬢が二人そろってこちらを見た。片方の口の端が上がったまま戻らない。
わたくしは帳面を出さなかった。出すと騒ぎになるのはもう学んでいる。
「帳面のことも、お聞きしました」
「はい」
「1冊、燃えてしまわれたとか」
「1冊目です。5つから7つまでの記録でした」
「まあ」
ヴィオレット嬢は胸に手を当てて、少しだけ目を伏せた。悲しむ人の型だ。呼吸のほうは少しも乱れていない。
「でも、あんなもの、燃えてよかったのですわ」
蜜蜂の羽音だけが、いやに近いところで鳴っている。
「あなたのためを思って申し上げるのです。人の顔を書き溜めるだなんて、まともな方のなさることではありませんもの。焼けたのは、きっと天のご配慮ですわ」
天幕の下で、誰かが笑いをこらえる音がした。
「それに、ご婚約のことも」
彼女は扇を持ち替えた。
「新しいお話が来ないのは、かえってよろしいのですわ。あなたのためを思って申し上げますけれど、あのお家との縁が続いていたほうが、お辛かったでしょう?」
わたくしの口が動いた。
「けっこうです」
自分の声なのに、聞いたことのない硬さだった。
喉のどこを使えばこの音が出るのか、分からない。
「え?」
「ご配慮はけっこうです。あの1冊には母の顔が書いてありました。5つの年より前の母の顔を、わたくしはもう思い出せません。天が配慮するなら、そこは残すはずです」
口の中が乾いている。奥歯を噛んでいるのが自分でも分かった。
それから、もっと妙なことが起きた。
わたくしは彼女の顔を見ていられなかった。
観察は12年の習慣だ。どんな顔でも見る。悪意でも嘲笑でも、書くために正面から見る。それができない。目が勝手に逸れて、白い扇の縁のあたりで止まる。
「……なんですの、その言い方」
「事実を申し上げました」
「わたくしは、あなたのためを思って」
「その言葉を、あなたは今日で三度お使いになりました」
ヴィオレット嬢の扇が止まった。
「あなたのためを思って。三度とも同じ形です。一度目は帳面のこと、二度目は婚約のこと、三度目は今です。書いてあります」
「……書いて」
「はい。あなたがその言葉を使われるとき、いつも周りに人が5人以上おります」
天幕の下の空気が変わった。
誰かが笑いをこらえるのをやめて、露骨に噴き出した。ヴィオレット嬢の頬から色が引いていく。彼女は口を開きかけ、それから扇を畳んで、侯爵のいる卓のほうへ歩いていった。
わたくしはその背中を見なかった。見られなかった。
天幕を出るとき、背中で誰かが「あの噂を流したのは誰だと思う」と囁くのが聞こえた。答えのほうは聞こえなかったけれど、必要もなかった。
生垣の内側でティルダが待っていた。日陰にいたはずなのに、額に汗が浮いている。
「お早いお戻りで」
「用は済みました」
「……お顔の色が」
「暑いのです」
嘘ではない。ただ、暑さのせいではないことも分かっていた。
帰りの馬車で、殿下がわたくしの顔を覗き込んできた。
「リディア嬢。今、目、合わせなかったね」
「はい」
「あの子と」
「見ていられませんでした。理由が分かりません」
「体は? どこか変?」
「口の中が乾きます。奥歯に力が入ります。それから」
わたくしは自分の手を見た。
「あの方の声が聞こえると、耳の裏が痒くなります」
殿下は窓の外を見て、少し笑って、それから真顔になった。
「それ、きらいっていうんだよ」
その語なら記録がある。悪魔、人形、失敗作。わたくしに向けて使われた言葉を並べた頁だ。
自分の側から使う語だとは思っていなかった。
「人はね、きらいなものからは目を逸らすの。見ると疲れるから」
「観察ができなくなります」
「うん。だから、きらいは損なんだよ」
「損なものが、なぜ体から出るのですか」
殿下は肩をすくめた。答えを持っていない顔ではない。言わないほうの顔だ。ここ数日、この顔をよく見る。
車輪が石を踏む。日が傾いて、車内の影が長くなっていた。
わたくしは帳面を開き、新しい行に鉛筆を当てた。
『きらい——習得』
書き終えて、頁を見下ろした。
字が濃い。
これまでの習得の行より、明らかに濃く見える。芯を強く押しつけたらしい。書いているあいだ、力を入れた覚えはなかった。
指で紙を裏返してみる。
その一行の形だけが、裏側に浮き出ていた。




