第11話 腹が痛いのは、病ではないらしい
腹が痛い。痛む場所が毎回ずれるのが厄介だ。
昨日は臍の上、今朝は右の肋の下、今は胃のあたりになる。痛みの強さは弱く、持続は短い。熱はなく、食欲も落ちていない。
わたくしは机に向かって、症状の一覧を作った。
『腹痛——原因不明。発症は4日前。1日に2回から5回。痛む位置が移動する』
はじまりの日のことは、はっきり覚えている。
王城の中庭だった。噴水の向こうの回廊に、殿下とヴィオレット嬢がいる。距離は近く、彼女は白い扇で口元を隠して笑い、殿下のほうも笑っていた。
薔薇の茂みの陰から、わたくしはそれを見ていた。見終わってから腹を押さえた。
以来、この症状が出る。
痛みそのものは大したものではない。困るのはいつ来るか分からないことだ。予測がつかないものは手順が作れない。手順が作れないものは、書いておいても役に立たない。
「お嬢様、屋敷の先生をお呼びしましょう」
ティルダが盆を置きながら言う。彼女は今日も落とさなかった。記録上、あれからずっと落としていない。
「3日前に来ていただきました」
「なんと」
「異常はないそうです。今朝もお越し願いましたが、同じでした」
「3日で二度も」
「四度です」
ティルダの動きが止まった。
「昨日、朝と夕に一度ずつお呼びしました。先生は最後に、しばらく安静になさってくださいと言って、それから廊下でため息をつかれました」
「……それは、そうでございましょうね」
原因が分からないものは、実験で切り分けるしかない。
殿下がいつもやっていることだ。条件を1つずつ動かして、体の出方を見る。やり方は横で12回見た。見ていれば覚える。
わたくしは条件を書き出した。発症した日の食事。時刻。着ていた衣。歩いた距離。同じものを再現して、痛みが出るかどうかを見る。
まず食事から試した。あの日の昼と同じ献立を厨房に頼んで同じ時刻に食べる。
痛まない。
次に衣。同じ夏の衣を着て、同じ靴で庭を同じ歩数だけ歩いた。
痛まない。
次に場所。馬車を出させて王城の中庭へ行き、噴水の同じ縁に立つ。水の音も砂利の鳴り方も、あの日と変わらなかった。
痛まない。
「お嬢様。何をなさっているのですか」
「実験です」
「毎日お召し替えをなさって、同じ道を同じ歩数で歩いておいでですが」
「9つ潰しました。あと2つです」
ティルダは口を開いて、それから歩数を数える役を引き受けてくれた。彼女の数え方はわたくしより速い。
3日かけて、条件を9つ潰した。残ったのは2つだけだ。
『変数A——ヴィオレット嬢がいること』
もう一つは、書くのに少し時間がかかった。
鉛筆の先を紙に置いてから字にするまでのあいだに、蝉が二度鳴いた。
『変数B——殿下がいること』
書き終えて、頁を眺めた。
条件が2つに絞れたのだから、実験としては進んでいる。進んでいるのに、頁を見ていると首の後ろが硬くなる。次の一手が思いつかないというより、思いつきたくない気配がある。
こういうときは手を止めて、別のことをするのがいい。帳面にそう書いてある。書いたのは去年のわたくしだ。
「なにしてるの、それ」
窓から入ってきた殿下が机を覗き込んだ。今日は窓が開いていたので、彼はふつうに窓枠をまたいだだけである。
「実験です」
「え、君が組んだの?」
「はい。原因が分からないので、条件を1つずつ消しております」
殿下は頁を上から下まで読んで、それから声を出さずに笑った。肩だけが上下している。
「変数A、変数Bって」
「他に書きようがありませんでした」
「で、どっちだと思う?」
「両方が同時に存在する場合を、まだ試しておりません」
「試さなくていい」
「なぜですか」
殿下は答えず、椅子を引き寄せて逆向きにまたいだ。背もたれに顎をのせて、机の縁に指を置く。
1、2、3。
乾いた音が3つ、部屋に落ちる。
「ねえリディア嬢。あの日、中庭で何を見た?」
「殿下とヴィオレット嬢が、回廊でお話しになっているところです」
「うん」
「彼女が扇で口元を隠して、殿下がお笑いになりました。距離は、ここから窓までより近うございました」
「よく覚えてるなあ」
「見ていられました」
自分で言ってから、妙な気がした。
きらいなものからは目が逸れる、と殿下は言った。園遊会でヴィオレット嬢の顔を見られなかったのはそれだ。けれど回廊のあの二人は、最後まで見ていられた。むしろ、見るのをやめられなかった。
同じ相手なのに体の出方が違う。
「殿下」
「うん」
「腹が痛むのは、病ではないのですね」
「病じゃない」
「では、何ですか」
殿下の指が机の縁から離れた。それから天井を見上げて、ずいぶん長いこと黙っていた。
「……嫉妬」
「しっと」
「自分が持っていないものを、誰かが持ってるように見えたときに出るやつ」
わたくしは考えた。
持っていないものなら数え上げられる。心の臓の欠け、笑いの出ない口、名前の分からない胸のざらつき。
けれど回廊の二人を見て痛んだ腹は、そのどれとも結びつかなかった。
「わたくしは、何を持っていないのですか」
殿下の唇が動きかけて、音にならずに閉じた。
蝉の声が高い。机の上の紙が、日を受けて白く見える。
「……それは」
「はい」
「それを説明すると、ぼくが困る」
彼は椅子ごと後ろに傾いて、天井に向かって長く息を吐いた。それきり何も言わない。
日の当たった窓枠から、木の脂のにおいが立っている。
「殿下。困るというのは、答えを持っておいでという意味ですか」
「そういう聞き方やめて」
「はい」
「君さ、たまに刃物みたいなこと言うよね」
「刃物を持った覚えはございません」
「そう。自覚がないのが、いちばん危ないの」
意味が取れなかったのでそのまま書いた。あとで読み返せば分かることもある。
わたくしは頁に戻った。
『腹痛——原因不明』の行に横線を1本引く。
12冊のどこを繰っても、線を引いた頁は出てこない。間違いに気づいたときは新しい頁に書き直してきた。前の行を消すと、間違えたという事実まで消えるからだ。
今日は消さずに線だけ引いた。理由は自分でも説明がつかない。
線の下に新しく書き直す。
『嫉妬——習得』
書きながら、殿下がこちらを見ているのに気づいた。覗き込んでいるわけではない。それでも目は頁のほうにある。
わたくしは左手を頁の上に置いた。
「あれ。隠した?」
「隠しておりません」
「今、手で覆ったよ」
「……覆いました」
自分の手を見る。手のひらが紙にぴたりと張りついていて、指の先が少し曲がっている。誰かに向かって何かを守るときの形だ。帳面の13頁に、そういう型が書いてある。
犬が骨をくわえたまま唸るときの前肢の角度と、同じ項に並べてあった。
「読まれて困ることは書いておりません」
「じゃあどけて」
わたくしは手をどけようとした。
どけられなかった。
腕が動かない。あの朝、殿下が帳面に触れかけたときと同じだ。こちらの命令を体のほうが聞いていない。
「殿下。腕が動きません」
「うん」
「これも、名前がありますか」
殿下は答えなかった。かわりに立ち上がって、窓の桟に手をかけた。帰るときの姿勢だ。
「今日はここまで。宿題ね」
宿題を出されたことがない。家庭教師は課題と言い、父は務めと言った。
「なんで隠したくなったのか、自分で考えてみて」
「実験の条件を出していただけますか」
「出さない」
「では、何を頼りにすれば」
「手順のないやつを、そろそろ1つくらい持ってていいと思う」
彼は窓の外へ消えた。楓の枝が揺れて、蝉の声が一度だけ途切れる。
わたくしは手を頁の上に置いたまま、しばらくそこにいた。
日が傾いて、机の上の影が伸びていく。ティルダが夕餉の支度を告げに来たとき、わたくしはまだ同じ姿勢だった。彼女は何も言わずに扉を閉めて出ていった。
覆う理由が分からない。分からないのに、腕だけが先に答えを知っている。




