第12話 12冊を、火にくべる寸前で
新しく覚えた言葉は、使ってみないと使い方が分からない。
わたくしは3日のあいだに『きらい』を4回、『嫉妬』を1回、口に出して使ってみた。結果は書いてある。
『きらい——庭師に使った。夏椿の剪定の話だったのに、翌日から目を合わせてくれない』
同じ語を料理番にも試した。魚の煮方の話だったのに、そのあと厨房が静かになった。
最後に試した相手はティルダで、こちらは別の語を使った。
『嫉妬——意味が伝わらなかったので説明したら、笑われた』
「お嬢様。その2つは、しばらくお使いにならないほうがよろしいかと」
「なぜですか」
「切れ味が強うございますので」
「使い方を書いてくださいますか」
「書けるものではございません」
「では、どうすれば加減が分かるのですか」
ティルダは盆を持ち直して、少し考えてから答えた。
「たいていは、誰かを切ってから覚えるものでございます」
わたくしは刃物を持った覚えがない。自覚がないのがいちばん危ない、と殿下は言っていた。
言われた意味はまだ分かっていなかった。
その朝、控えの間の卓に書きかけの手紙があった。
ティルダの字だ。宛名は妹の名前で封はしていない。彼女は湯を取りに行っていて、部屋にいなかった。
わたくしは読んだ。
読んではいけないと思わなかった。卓の上にあるものは読む。文字は情報で、情報は書き留めるためにある。12年、そうしてきた。
『店のことですが、やはり3年か4年はかかります。今の給金では足りません。焼き菓子だけなら小さな店で始められると、南の商会の方が言っていました』
『お嬢様には申し上げていません。申し上げれば、お嬢様は必ず何かなさろうとします。あの方はそういう方です』
『もう少しだけ、ここにいます』
わたくしは手紙を元の位置に戻した。角度まで揃えて戻したので、読んだ痕跡は残っていない。
書き留めもしなかった。書くまでもなく覚えている。
卓の端には返事の束も置いてあった。妹の字だ。姉より丸くて、線が太い。いちばん上の1通に「お嬢様は今もお元気ですか」と書いてある。
わたくしはその束には触らなかった。触らなかった理由は自分でも分からない。
殿下はこの日、来なかった。
前の晩に使いが来て、3日ほど王城に詰めると伝えられていた。理由は書かれていない。窓を開けても楓の枝は揺れなかった。
午後になって、ティルダが茶を運んできた。
「お嬢様。園遊会でのことでございますが」
「はい」
「ダルクール様に、あまり強くおっしゃいませんように」
「なぜですか」
「あの方にも、お立場がおありでしょうから」
耳の裏が痒くなった。
きらいの型だ。ヴィオレット嬢のことを考えると出る。今、彼女はここにいないのに出た。
「あなたは、あの方を庇うのですか」
「庇うのではございません。お嬢様のお立場を——」
「あなたは店を持ちたいのですね」
盆の上で、茶碗が小さく鳴った。
ティルダの動きが止まる。息を吸ったまま、吐かない。笑ったのを見られたあの朝と同じ形だ。
「……なぜ、それを」
「手紙を読みました。控えの間の卓にありました」
「あれは、まだ書きかけで」
「3年から4年かかると書いてありました。今の給金では足りないとも」
わたくしはそこで止めればよかった。
止め方を知らなかった。書いてあることを順に言えば話は正確になる。12年、それで滞りなく進んできた。
「わたくしの侍女でいるかぎり、給金は上がりません」
「……はい」
「ヴィオレット嬢を庇うのは、いずれ出ていくおつもりだからですか。ここでの評判を落としたくないからですか」
ティルダの顔から色が引いた。
「ちがいます」
「では、なぜ庇うのですか」
「ちがいます!」
盆が傾いて、茶が卓布に広がっていく。彼女はそれを拭こうとしなかった。こぼれたものには、いつも彼女の手のほうが先に動くのに。
胸の奥が熱い。奥歯に力が入る。喉のあたりで、言葉が勝手に順番を作っていく。
止めなければ、と頭のどこかが言った。
わたくしはその声を無視した。
「妹君への手紙に、わたくしの顔のことばかり書かれるのは」
「お嬢様」
「他に話す相手が、いらっしゃらないからですか」
庭のほうで蝉が鳴きやんだ。
卓布の茶が縁まで届いて、そこから床に落ちた。滴の音が3つ。4つ目は落ちなかった。
ティルダは動かなかった。泣きもしなかった。あれだけ落としてきた水を、今日は一滴も落とさない。
「……お嬢様」
「はい」
「暇を、いただけますでしょうか」
わたくしは頷いた。
「休みですか。何日ご入用ですか。実家までは馬車を出させます」
「そうではございません」
「では、何ですか」
「お仕えを、退かせていただきます」
言葉の形は分かった。
意味のほうが、少し遅れて届く。
「退く」
「はい」
「明日の朝は、どなたが起こしに来られますか」
ティルダの喉が動いた。ようやく、目のふちに水が溜まる。
それでも彼女は瞬きをして、それを落とさなかった。
「別の者に引き継ぎます。衣装の順も、薬の場所も、書いて残します」
「はい」
書いて残す、と彼女は言った。わたくしの真似だ。12年のあいだに、いつのまにか移っていたらしい。
「……お嬢様」
「はい」
「わたしは、お嬢様が嫌いになったのではございません」
「では、なぜ」
彼女は答えずに礼をした。角度は完璧だ。母の礼と同じくらい正確でそのぶん遠い。
扉が閉まる。
わたくしは卓の前に立ったまま、自分の体を確かめた。
耳は熱くない。胸も痛まない。指も震えていない。呼吸は乱れず、脈も速くない。
何も出ない。
これまで9つ覚えた。どれも体のほうが先に動いて、名前はあとから貼られた。今日はその体が動かない。
いちばん必要なときに、この体はいつも遅れる。あるいはそもそも来ない。
帳面を開いて、新しい行に書いた。
『何も出ない』
その下に何を書けばいいのか分からず、鉛筆を置いた。
夕方、卓布は誰かが取り替えていた。染みも残っていない。
夜になった。
屋敷は静かで、廊下に人の気配がない。ティルダの部屋の扉は開いていて、中には何も残っていなかった。荷は少なかったらしい。
壁に鉤が3つ。寝台は毛布まで畳んである。窓の下の小さな卓には何も残っていない。
焦げ茶の帳面もなかった。持っていったのはたぶんそれだけだ。
わたくしは机の上の帳面を抱えた。
1冊目が抜けているぶん、あの雨の日より腕が軽い。それでもわたくしは12冊と数えている。抱えると顎の下まで届く高さは変わらなかった。
階段を降りた。
厨房の竈には火を落としたあとの熾がまだ残っていた。灰の下で赤いところが息をしている。近づくと顔の右側だけが熱い。
わたくしは考えた。
書いてあるとおりに言えば間違えない。5つのころからそう信じてきた。葬儀では口の端を下げ、祝いの席では口角を上げる。書いてあるとおりにやれば、たいていのことは滞りなく進む。
今日、わたくしは書いてあるとおりに言った。
事実を、順番に正確に。
それで人が一人いなくなった。
いちばん上の1冊を取り上げて、火の上にかざす。
紙の端が熱で反り返っていく。焦げる匂いが立った。あの日の広間と同じ匂いだ。
落とせばいい。落としてしまえば、明日からは何も言わずに済む。書いていなければ、口に出すこともない。
腕が下りない。
指が開かない。手首から先がわたくしの言うことを聞かなかった。
熾の赤が弱くなって、厨房が暗くなっていく。
わたくしはそこに立ったまま、11冊を抱え直した。




