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令嬢はこの気持ちの名前を知らない 〜「心がない」と婚約破棄された悪役令嬢に、殿下が感情をひとつずつ教えてくれます〜  作者: 夜凪 蒼


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第13話 ひとりの部屋は、こんなに広い

朝の7時に、誰も起こしに来ない。


目は6時に覚めていた。7時まで待ってから起き上がったのは、待てば来ると体が思っていたからだ。体のほうが手順を覚えている。


寝台を降りて、自分で衣装部屋の扉を開けた。


夏の衣は3枚ある。どれも背中で留める作りで、鏡に映しながら手を後ろに回してみたが、いちばん下の鉤にしか指が届かない。


腕を上から回す。届かない。下から回す。指の先が鉤に触れて、そのまま滑る。


鏡を横に置いて角度を変えてみたが、鏡の中の手は逆に動く。左右が入れ替わるので余計に外れた。


15分ほど格闘して、わたくしは結論を出した。


『背の鉤は一人では留まらない』


その一行を書いてから、部屋着のまま椅子に座った。


12年、この鉤は毎朝誰かが留めていた。留まったあとの背中しか鏡に映らないので、留める順序は12冊のどこにも書いていない。


観察していないものは書けない。書いていないものはできない。


代わりの女中が来たのは8時だった。名を呼ぶと肩が跳ねる。母の輿入れの前から屋敷にいる古参で、いちばん長く勤めている人だ。


「お、お嬢様。申し訳ございません。ティルダから引き継ぎの紙をもらいましたが、量が」


彼女は前掛けの下から紙の束を出した。厚みは指の第一関節ほどある。


「38枚ございました」


朝の支度と衣の順。湯の温度。薬の場所と茶葉の分量。わたくしが答えに詰まる質問の型とその避け方。ティルダは一晩でそれを書いたらしい。


わたくしは38枚のうち3枚だけ読んで、残りを引き出しに入れた。


読むと、字を見ることになる。


殿下が戻ってきたのはその日の昼だ。窓からではなく、玄関から、しかも走って入ってきた。


「聞いた」


「はい」


「聞いたよ、ぼく」


「はい」


「なんで使いをよこさないの」


「ご用があると伺いましたので」


殿下は口を開けて、閉じて、それから壁に額をつけた。しばらくそのままでいる。


「今日は、さみしいをやる」


まだ手に入れていない語の一覧に、その名がある。人がいなくなったときに出るものだと、以前そこへ書き足した。


「今なら取れる」


彼の言い方はいつもより速かった。


実験1は部屋を空にすることだった。


女中も従僕も下がらせて、殿下自身も廊下へ出る。15分ののち戻ってきた彼に、わたくしは所感を述べた。


「静かでした。書き物が捗ります」


「捗るな」


実験2は一人の食事だった。


長い卓の端にわたくしだけが座り、給仕もつけずに食べる。


「どう」


「配膳が要らないので、冷めないうちに済みました」


「効率の話やめて」


実験3で、殿下は手紙を持ち出した。


わたくしに宛てて手紙を書かせ、返事が来ない状態を作るのだという。人は返事を待つあいだにさみしくなるらしい。


わたくしは机に向かって1通書き、封をして、渡した。


殿下がそれを開いて読み上げる。


「『拝啓。返事は不要です』」


「時候の挨拶も入れました」


「入れなくていいところが完璧なんだよなあ!」


彼は手紙を頭上に掲げたまま、しばらく動かなかった。


実験4は屋敷を出て人混みへ行くことだった。市の立つ通りを端から端まで歩く。人のあいだにいると、一人であることがよく分かるのだそうだ。


「どう」


「肩がぶつかります」


「うん」


「7回ぶつかりました。うち5回は謝られ、2回は謝られませんでした」


「そこ数えるんだ」


「殿下がお隣におられますので、一人ではございません。条件が満たされておりません」


殿下は市の真ん中で立ち止まって、両手で顔を覆った。魚売りの前だったので、周りが妙な顔をしていた。


夕方、女中と衣装部屋を片づけた。


ティルダの棚は空になっている。予備の前掛けが2枚と、縫い直しの糸が残っているだけだ。棚板に薄く埃の線が残っていて、そこに何が置いてあったかは分かる。


四角い線が1つ。細長い線が2つ。細長いほうは針箱とたぶん蝋燭立てだ。四角いほうの寸法は、贈った帳面とちょうど合う。


線だけを見ていると、置いてあった物のほうが本物で、消えたのは中身のほうだという気がしてくる。


「あの子は、几帳面でございましたねえ」


女中は棚を布で拭きながら言った。話しているあいだも手が動きつづけている。


「長く勤めておりますが、あんなに書き物をする侍女は初めてでございます。夜、蝋燭が減るのが早いと厨房で言われておりました」


「何を書いていたのですか」


「さあ。妹御への手紙だと申しておりましたが」


彼女は棚の上の段に手を伸ばして、そこで少し声を落とした。


「奥様も、昔は書き物をなさいました」


「母が」


「はい。お嬢様のお生まれになった年ごろは、庭のことやら献立やら。……あのころは、よく笑っておいででしたよ」


布が止まった。


「奥様は、5つの年より前は、お嬢様の前で笑っておられました」


わたくしは女中の顔を見た。


彼女は自分の口を押さえた。それから早口で、聞かなかったことになさってください、と言う。棚を拭き終えていないのに布を畳んで、礼をして、出ていってしまう。


「お待ちなさい」


「申し訳ございません」


「それは、どういうことですか」


扉が閉まった。


廊下を追いかけて、途中でやめた。追いかけて聞き出す手順を、わたくしは持っていない。


夜になった。


わたくしは机の前に座って、蝋燭に火を移した。


書くことはある。今日の実験の結果。女中の言葉。棚の埃の線。順番に並べていけばいい。


鉛筆を持った。次の字が、出てこない。


部屋が広い。


寸法が変わったわけではない。壁も天井も昨日と同じ位置にある。それなのに、蝋燭の光が届かない場所がやけに多く見えた。


音も違う。紙をめくる音がいつもより長く残る。


いつもは扉のそばに人がいた。盆を持って、あるいは何も持たずに、こちらが顔を上げると必ず目が合った。今そこには何もない。壁と、閉じた扉と、鉤に掛かった昨日の衣だけだ。


息が浅くなる。


胸のあたりが重い。あの日の馬車と似ているけれど、あれより下のほうにある。座っているのに、体の芯が沈んでいくような感じがした。


わたくしは立ち上がって、扉のそばまで歩いた。


そこに立って、部屋を振り返る。ティルダはこの角度から、毎朝わたくしを見ていたことになる。


膝の力が抜けて、その場に座り込んだ。


「——リディア嬢」


窓の外から声がした。


顔を上げると、楓の枝に殿下がいた。帰ったふりをして、そこにいたらしい。枝が細くて、体が傾くたびに葉が鳴る。


「まだいらしたのですか」


「うん。今日は来ると思って待ってた」


「危のうございます」


「その話はあと」


彼は枝の上から、わたくしのほうを見た。


「今、どう」


「部屋が広いです」


「うん」


「殿下。先に名前をいただけますか」


「順番、逆じゃない?」


「名前があれば、そこへ入れられます。中身のほうは、あとから合わせます」


しばらく間があって、それから、いつもより低い声が降ってくる。


「それ、さみしいっていうんだよ」


風が来て、楓の葉がいっせいに裏返った。


もらった名前を先に置いて、そこへ今日の体を入れてみる。広い部屋も残る音も沈んでいく感じも、全部その中に収まった。余りが出ない。


「殿下は、ずいぶん手をお尽くしになりました」


「うん」


「部屋を空にして、食事を一人にして、手紙まで書かせて、市まで歩かせて」


「全部外れた」


「はい。何もしないでいるときに出ました」


「そうなんだよ」


枝の上で、殿下が膝を抱え直した。葉の影が動いて、彼の顔の半分が暗くなる。


「さみしいは、取りに行くと逃げるんだ。座ってると後ろから来る」


わたくしは床に座ったまま、帳面を引き寄せて開いた。


字が斜めになるのは、膝の上で書いているからだ。


『さみしい——習得』


書いてから、一行あけた。


その下に、まだ名前のつかない一行を書く。


『母は5つの年より前は、わたくしの前で笑っていたらしい』


蝋燭の芯が短くなって、部屋の隅がまた少し暗くなった。

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