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令嬢はこの気持ちの名前を知らない 〜「心がない」と婚約破棄された悪役令嬢に、殿下が感情をひとつずつ教えてくれます〜  作者: 夜凪 蒼


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第14話 目から水が出ています、故障です

4日目の朝、わたくしは馬車を出させた。


行き先は王都の南、通りの角のパン屋だ。その二階にティルダの家がある。住所は引き継ぎの38枚のうち、37枚目に書いてあった。


「万一のご連絡先」という表題がついていた。彼女は自分がいなくなったあとのことまで、きちんと分類して残していた。


殿下は御者台の隣に座ると言い張って、途中で3回落ちかけた。


パン屋の前で馬車を降りると、焼き上がりの匂いが強かった。麦と少し焦げた砂糖。表の台に並んだパンの数を、わたくしは無意識に数えていた。


二階への階段は外にあって、板が薄い。上ると音が鳴る。


扉を叩くとすぐに開いた。


出てきたのは15か16の娘だった。ティルダより背が低く、髪の色が同じで目が丸い。手が粉だらけで、慌てて前掛けで拭いている。


わたくしを見て、その手が止まった。


「……お嬢様」


「お会いしたことがありませんが」


「存じ上げております。姉の手紙で」


彼女はわたくしを部屋に入れた。狭い部屋で、卓が1つと椅子が2つ。殿下は椅子を娘に譲って、床に座った。王子が板の間に直に座るのを、娘は止められずに口を開けていた。


天井が低い。壁に窓が1つあって、そこから見えるのは向かいの屋根だけだ。棚には器が伏せて並び、隅に寝具が畳んである。この広さで、姉妹と母親が暮らしていたことになる。


わたくしの部屋の3分の1もない。


「姉は、おりません」


「どちらへ」


「働き口を探しに。朝から出ております」


「そうですか」


わたくしは何を言えばいいのか分からなかった。


用件は決めてきた。ティルダに会って、事実を述べて、それから戻ってもらう。手順はそこまで書いてある。相手がいない場合の頁は作っていない。


娘は湯を沸かしに立った。茶碗が2つしかないので、殿下の分は器で出てくる。彼は何も言わずにそれを受け取った。


娘は棚から木箱を下ろした。蓋を開けて、卓の上に置く。


紙の束が入っていた。ずいぶんな厚さだ。


「姉の手紙でございます。12年ぶん、全部とってあります」


12年。わたくしの帳面と同じ年数だ。同じ日から、二人が別々に書いていたことになる。


「読まれますか」


「よろしいのですか」


「姉が、お嬢様に見せてはいけないと申したことは、一度もございません」


娘は束のいちばん下から順に取り出した。古いものほど字が大きく、線が曲がっている。


「これが最初のです。姉が6つのときに書いたものですから、字がひどうございますけれど」


『お嬢様は今日、わらいませんでした』


「これは、10のとき」


『お嬢様が転ばれました。血が出ましたのに、痛いとおっしゃいません。わたしのほうが泣きました。おかしいですね』


娘は1通ずつ読み上げていく。声は落ち着いていて、恨みも怒りも入っていない。


それがかえって、こちらの逃げ場を消した。


『お嬢様が奥様に手をお伸ばしになりました。奥様は廊下の向こうへ行かれました。お嬢様は手を下ろして、そのことを帳面にお書きになりました』


その日のことは覚えていない。11のころの頁を思い返しても、そんな記述に行き当たらない。


書かなかったのか、書いて忘れたのか。どちらにしてもティルダは覚えていた。


『今日、お嬢様に「泣く理由が分かりません」と言われました。お嬢様は悪くないのです』


「その日のことは覚えています」


わたくしは言った。


「4年前の、冬の初めです。厩の犬が死んで、ティルダが泣きました。わたくしは理由を聞きました」


「はい」


「帳面には、その日のことを書いてあります。『ティルダが泣いた。犬が死んだため』と」


娘は次の1通を取った。


『今日、「あなたの代わりはいる」と言われました。事実です。お嬢様は嘘をおつきになりません』


「……それは」


言いかけて、口が動かなくなった。


覚えている。3年前だ。ティルダが熱を出して、それでも起きようとしたので、休むように言うつもりだった。休むように言う言い方を、わたくしは知らなかった。


12冊のその日の頁にはこう書いてある。


『ティルダ、発熱。代わりの者を立てる。本人は笑って承知した』


笑った、と書いてある。


わたくしが見て、わたくしが書いた。書いて、そのまま12年しまい込んでいる。


型は間違っていない。口角は上がっていた。目尻も下がっていた。笑いの型を集めた頁と照らせば、あれは確かにその一つだ。


型が合っていれば、中身も合っているのだと思っていた。


顔は書ける。顔の下にあるものを、わたくしは1行も持っていない。


娘が最後の1通を取り出した。


さっきまでより新しい紙で、折り目もついていない。


「これが、いちばん新しいものです。おとといの朝、届きました」


『今日、妹への手紙に私の顔のことばかり書くのは、他に話す相手がいないからかと聞かれました』


そこで文章が終わっていた。


続きがない。これまでの手紙には必ず添えてあったはずの言葉がこの1通にはない。


「お嬢様は悪くないのです、と」


娘が言った。


「姉は12年、必ずそう書き添えておりました。今度だけ、書いてありません」


紙の上の字が滲んだ。


雨だと思った。屋根が薄いのかもしれない。板の隙間から落ちてきたのかもしれない。


顔を上げると天井は乾いている。


もう一度紙を見るとまた滲む。滲む場所が動いている。


わたくしは頬に手を当てた。


濡れていた。


「……水です」


指を目の前に持ってくる。透明で、匂いはなく、少ししょっぱい。舌に当ててみて、それが自分の体から出たものだと確認した。


喉が塞がる。息を吸おうとすると、途中で引っかかって痙攣する。視界が歪んで鼻の奥が痛い。


「殿下」


「うん」


「目から水が出ています」


「うん」


「止まりません。呼吸が痙攣します。視界が歪みます」


床に座っていた殿下が、こちらを見上げていた。


「故障です。医師を呼んでください。今すぐに」


膝立ちになって、卓の縁に手をかけて、わたくしの顔を近くから見る。それから、口を開いた。


「……それは」


声が震えていた。


いつもなら半音高いところから始まる。今日はそれより低いところで、語尾が揺れていた。


「それは、悲しいっていうんだよ」


「かなしい」


「うん」


「これは、故障ではないのですか」


「ちがう。ずっと前から出るはずだったやつが、今日やっと出ただけ」


わたくしは膝の上に帳面を出した。


開いてから、紙が濡れて字が書けないことに気づく。手の甲で拭っても、拭うそばから落ちてくる。


娘が布を差し出した。粉のついた前掛けを外して、その裏側を出したものだった。


わたくしは布で頁を押さえて、鉛筆を当てた。


『悲しい——習得』


書けた字はこれまででいちばん読みにくかった。滲んで、線が太くなって、最後の一画が紙に引っかかっている。


それを見ながら、娘が泣いた。


袖で目を押さえて、それから押さえるのをやめ、そのまま流している。姉と同じ泣き方だ。


「姉は」


「はい」


「姉は、明日も明後日も、たぶんお嬢様のことを書きます」


「なぜ、そう思われるのですか」


「12年、そうでしたから」


わたくしは立ち上がった。


伝言を頼むかどうか階段を降りるまで迷った。頼めば戻ってくるかもしれない。戻ってきてほしいと言えば、あの人はきっと戻る。


だからこそ、言ってはならない気がした。理由は説明できない。


帰りの馬車の中で、わたくしはもう一度頬を触った。


濡れていた場所は風で乾いていた。乾いてもそこだけ皮膚が引きつっている。


窓の外を王都が流れていく。殿下は何も言わず、御者台には戻らずに、わたくしの向かいに座っていた。

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