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令嬢はこの気持ちの名前を知らない 〜「心がない」と婚約破棄された悪役令嬢に、殿下が感情をひとつずつ教えてくれます〜  作者: 夜凪 蒼


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第15話 泣ける令嬢は、泣かせがいがあるらしい

王都で、賭けが始まったらしい。


賭けの対象はわたくしだ。次にいつ泣くか、どこで泣くか、誰の一言で泣くか。北の酒場では賭け札まで刷っているのだと殿下が言った。


「なんで知ってるの、殿下が」


「聞き込んだ」


「賭けにご参加なさいましたか」


「してない。……いや、1回だけ、絶対泣かないほうに賭けた」


「なぜ」


「胴元の顔が気に入らなかったから」


出所は分かっている。パン屋の階段は外にあって、下の通りから丸見えだ。あの日、通りには人がいた。


根も葉もない話ではないぶん、消えるのも遅い。人形が泣いた、という一行は、帳面の噂よりよほど速く走るらしい。


翌週、招待状が届きはじめた。


7分の1まで減っていた数が、10日ほどで元に戻り、それを超えた。今月は14通あった。


差出人の顔ぶれも変わった。婚約が解けたあと挨拶をよこさなかった家が、今度はいちばん先に届けてくる。文面は判で押したように丁寧で、どれも「ご息女様のご快癒を祝して」と書いてあった。


快癒した覚えはない。


「多うございますね」


「行かないほうがいいと思う」


「行きます」


「なんで」


「呼ばれた理由を知っておきたいのです」


理由は3つ目の夜会で分かった。


わたくしが広間に入ると扇の陰で人が動く。誰かが誰かに何かを渡している。目の端に映ったのは硬貨の光り方だった。


最初に来たのは名前も覚えていない男爵家の次男だ。


「オルコット嬢。お噂はかねがね」


「はい」


「あの侍女は、お戻りになりましたか」


「いいえ」


「そうですか。……惜しいことをなさいましたなあ。12年もお仕えした者を、たった一言で」


言い終える前に、彼の目がわたくしの顔を舐めるように動いた。目のあたりを見ている。頬を見ている。


出るのを待っている顔だ。


『泣くのを待つ人の型——瞬きが減る。呼吸が浅くなる。口の端が動く』


書いてから顔を上げると、男は青くなって離れていった。


同じ夜、あと4人が同じことをした。


型はどれも似ていた。ティルダの名前を出し、焼けた帳面の話をし、婚約の破棄に触れる。順番まで似ているのは、たぶん誰かが手順を配ったのだろう。


配られた手順に従って動く人間の顔を、わたくしは知っている。鏡で12年見てきた。


配られたとおりに口を動かせば外さない。彼らもそう信じている。信じている者どうしが向かい合うと、話は驚くほど嚙み合わない。


違うのはわたくしの手順は自分で書いたものだということだけだ。


5人目は幼い令嬢だった。


10かそこらの子で、後ろに母親が立っている。母親が背中を押して、子が前に出た。


「あの、オルコット様。おかあさまが、ないてくださいって」


言われたとおりに言った子の顔は、わたくしがよく知っている型だった。分からないまま、言われたことを正確に実行している顔だ。


わたくしはその子の前に膝を折った。


「言われたとおりになさったのですね」


「はい」


「よくできました。次からは、言われた理由も聞いたほうがよろしいです」


母親が娘の手を引いて下がっていった。


その日から、わたくしは帳面を開くのをやめた。


理由は単純だ。書くと、その場面をもう一度見ることになる。もう一度見ると喉の奥が締まる。締まったあとに来るものを、わたくしはもう知っている。


書かなければ来ない。


書かなければ、誰の懐にも硬貨は入らない。


「開けなよ」


殿下は毎日そう言った。


「開けません」


「なんで」


「開けると出ます」


「出ていいんだよ」


「出ると、あの方々が儲かります」


殿下はいつも、そこで別の話に移った。


書かないと夜が長い。


これまで12年、寝る前に必ず頁を埋めてきた。埋めないと、その日に見たものが頭の中で場所を持たないままになる。持たないものは並ばない。並ばないものは朝まで動き続ける。


指が震える。手のひらに汗が浮く。寝台の中で、その日の顔の型を暗算のように並べ直してはまた崩す。


泣いてくださいと言った子の顔も、母が階段の上で口を開きかけた角度も、みな同じ棚に押し込まれたままになっている。取り出すには一度書かなければならない。


書けば、出る。


出れば、どこかの賭け札に印がつく。


3日目の朝、女中が言った。


「お嬢様。目の下が」


「眠っております」


女中は納得しなかった。夜の蝋燭の減りを数えているのだろう。


わたくしはもう一度、同じ言葉を返した。


同じ日の午後、叔父から手紙が届いた。


『王都の噂は聞いている。気にすることはない。あれは退屈な者たちの遊びだ。つらくなったら、いつでもわたしの家へ来なさい。従妹もお前に会いたがっている』


角の丸い、読みやすい字だった。文面のどこにも棘がない。


わたくしは3度読み返して、それから引き出しにしまった。しまう前に、返事を書くべきかどうかで少し迷った。


なぜ迷ったのかは、自分でも分からない。


ヴィオレット嬢に会ったのは、6つ目の夜会でだった。


彼女は白い扇を持って、まっすぐ近づいてきた。取り巻きは連れていない。連れていないほうが効くと知っているのだろう。


「オルコット様。お会いしとうございました」


「そうですか」


「お噂は伺っております。……お可哀想に」


耳の裏が痒くなる。目が逸れる。今夜は最初から彼女の顔を見ていない。


「あの侍女、まだお戻りになりませんの?」


「はい」


「ではもう、あなたの代わりに泣いてくださる方は、いらっしゃらないのですね」


広間の音が遠くなった。


喉が締まる。鼻の奥が熱い。指の先が冷えて、そこから震えが上がってくる。


帳面は腰の紐に下げてある。開けば、この型を書ける。書けば整理される。整理されれば、たぶん少しは楽になる。


わたくしは開かなかった。


「オルコット様?」


「けっこうです」


「まあ。何のことですの」


「わたくしは、あなたのために泣きません」


自分の声が硬いのが分かった。硬いだけで震えてはいない。


ヴィオレット嬢が扇を持ち上げかけたところで横から声がした。


「ねえ」


殿下だった。


彼はいつもの調子で歩いてきて、いつもの位置で止まった。それなのに、広間の空気が段違いに落ちた。


笑っていない。


わたくしは12冊のどの型とも照合できなかった。彼は笑わないときでも、たいてい目のどこかが動いている。今は動いていない。


「今の、もう一回言って」


「……殿下。わたくしはただ、ご心配を」


「うん。もう一回」


わたくしは殿下の袖を掴んだ。


「殿下」


「なに」


「おやめください」


「なんで」


「殿下が困ります」


彼はわたくしを見下ろして、それから、掴まれた袖のあたりを見た。長く息を吐いて、肩の力を抜く。


「……わかった」


帰りの馬車で、殿下は窓のほうを向いたままだった。


灯りの少ない通りでは、硝子に映るほうの顔がよく見える。


「リディア嬢」


「はい」


「今日、書いた?」


「開いておりません」


「うん」


彼は膝の上で手を組んだ。


指が組まれたまま、しばらく動かない。


「あのさ。ぼく、あいつらにも腹が立ってるけど」


「はい」


「君が閉じてるほうが、もっと腹が立つ」


屋敷に戻って、机の前に座った。


蝋燭に火を移して、鉛筆を出して、そこまではいつもどおりだ。


表紙に手を置く。


11冊が机の端に積んである。空いた1冊目の場所も、いつもと同じだけ空いている。熱を出した日も婚約が解けた日も、火傷をした日も書いた。この12年、毎晩そうしてきた。


開かなければ何も起きない。何も起きなければ、誰の得にもならない。


指の震えだけが朝まで止まらなかった。

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