第16話 ありがとうの、言い方がわからない
その医師は挨拶より先にわたくしの瞼を裏返した。
「失礼。結膜、充血あり。器質は正常。睡眠不足ですね。何日?」
「8日です」
彼はもう一度こちらの瞼を裏返した。確かめるように瞬きの回数を見て、それから顔を離す。
「連続ではありません。眠った日もあります」
「そこは連続でないほうが困るんですが」
殿下が連れてきた男は、ヴァンサンと名乗った。26だという。白い上着に薬のにおいが染みていて、鞄の留め金が片方壊れている。
その鞄を彼は膝に載せたまま診察を始めた。置く場所を探すという工程が、彼の頭にはないらしい。壊れた留め金のせいで中身が半分見えている。器具の並びだけは、寸分の狂いもなく揃っていた。
早口だ。息継ぎの位置が人と違う。
「僕は王立医学院の出です。5年おりました。それから王都の南で開業して2年。ここまでで質問は?」
「なぜ、そこまで先におっしゃるのですか」
「あとで聞かれると時間の無駄なので」
「なるほど」
わたくしは頷いた。合理的だ。
殿下が扉のところで妙な顔をしている。
問診が始まった。
質問は短く、間がない。答えると同時に次が来る。こちらの答えを疑いも憐れみもしないので、話していて引っかかるところがなかった。
12年、医師に会っていない。会っていたころのことは覚えているが、あのときの大人たちは、わたくしにではなく父に向かって喋っていた。
「食欲」
「あります」
「睡眠」
「浅うございます」
「排便」
「1日1回。朝です」
先生は鞄の中の器具を並べ替えながら聞いている。目はこちらを見ていない。
それでも、答え終わる前に次の問いが来た。
「よろしい。では、笑ったことは何回」
「今年に入ってからです。肩が揺れた回数でよろしければ7回です」
「……待ってください。17年生きていて、その数ですか」
数え違いはない。肩の揺れた日には印をつけてある。
「0ではないんですね?」
「0ではありません」
「0だと記録上あり得ない数字なので助かります」
ヴァンサン先生は帳面を出して——彼も帳面を持っている——猛烈な速さで書きはじめた。
わたくしも帳面を出して、彼の書く速さを記録した。
「今、何を」
「先生の筆記の速度です。わたくしの倍近くございます」
「なぜ計られるんですか」
「速い方は珍しいので」
「あなたのほうが、よほど変わってますよ」
二人で同時に書いた。芯の走る音が2つ、部屋の中で追いかけっこをしている。
殿下が壁に背中を預けて、上を向いた。
「ぼく、いらないなあ」
紹介した本人が置いていかれるのは、たぶん珍しいことなのだろう。彼はしばらく壁のところで待っていたが、誰も呼ばないので、そのうち窓の桟に腰かけて足を振りはじめた。
診察は丁寧だった。
脈を取り、瞳孔を見る。膝を叩き、皮膚をつまむ。最後に涙腺のあたりを指で押さえて、しばらく黙った。
指の当て方に迷いがない。人の体に触れ慣れた手だ。あの年、部屋に並んだ10人以上の医師の中に、こういう手をした人がいたかどうか。思い出そうとして、思い出せなかった。
「涙は出ましたね。いつ」
「8日前です」
「それが最初ですか」
「はい」
「17年目でようやく1回目。……表情筋は動きます。声帯も。涙腺も詰まっていない」
「では、なぜ出なかったのですか」
「遅いんです」
彼は人差し指を立てて、こちらの目の高さに置いた。
指はまっすぐで、爪が短く切ってある。
「反応そのものは起きています。体に出るまでに時間がかかるだけです。人より薄くて、遅い」
「治りますか」
「いいえ」
即答だった。慰めの気配が1つもない。
「治す病ではないからです。あなたの体は壊れていない。工程が長いだけです」
工程、という語をわたくしは書き留めた。
治らない、と言われたのは12年ぶりだ。5つのころに聞いた同じ言葉は、部屋の空気を一段冷たくした。父が出ていき、母が微笑まなくなったのは、その言葉のあとだった。
今日のそれはなぜか冷たくない。
「治らないのに、なぜ診てくださるのですか」
「治らないことを確かめるのも診察です」
先生は器具を鞄に戻しながら答えた。手つきは事務的で、こちらの顔を見てもいない。
「壊れていないものを壊れていると呼ぶほうが、よほど害になります」
そのとき、扉が開いた。
ティルダが立っていた。
外套を着たまま、片手に小さな包みを提げている。頬が赤いのは走ってきたからだろう。息が上がっている。
わたくしは立ち上がった。
立ち上がってから、次に何をすればいいのか分からなくなった。
12日ぶりだ。彼女は少し痩せていて、髪の結い方が変わっていた。奉公先を探して歩くための結い方なのだと、あとになって思い当たる。
「……お戻りしました」
「はい」
ほかの言葉が出てこない。喉まで来て、そこで形にならずに散る。
「勝手に上がって申し訳ございません。玄関の方が、通してくださいましたので」
沈黙が続いた。
ヴァンサン先生が鞄を膝に載せたまま、こちらと扉を交互に見ている。殿下は窓の桟から降りて、壁際まで下がった。
謝る手順を、わたくしは書いていない。書いていないものはできない。
言葉を並べようとして、順番が組めない。まず何を言えばいいのか。事実から入るのはたぶん間違いだ。事実から入って、わたくしはこの人を失った。
先に口を開いたのはティルダだった。
「妹から手紙が参りました。お嬢様が泣かれたと」
あの日の翌朝には届いたはずだ。それから何日か、彼女はそれを持ったまま働き口を探して歩いていたことになる。
「それで戻ったのではございません」
「では、なぜ」
彼女は包みを持ち直した。
「店のことでございますが」
「はい」
「3年から4年かかります。それまで働き口が要ります。ここが、いちばん給金がようございます」
「……はい」
「それと」
ティルダは顔を上げた。
こちらの目のあたりを、まっすぐに見る。
「わたしは、お嬢様の代わりに泣くのをやめます」
声は落ち着いていた。震えも遠慮もない。12年、この人の言葉はいつも語尾が上がって終わっていたのに、今日は下がったところで止まる。
「12年、そうしてまいりました。もうなさいますので、必要ございません」
「はい」
「ですから、次に同じことをおっしゃったら、今度は本当に出てまいります。今度は戻りません」
わたくしは頷いた。
頷いてから、喉が詰まった。
言うべき言葉は分かっている。ありがとう。3文字だ。祝いの席でも葬儀でも使う。帳面には使用場面が42通り書いてある。
その42通りのどれとも、今の状況が合わない。
口を開けた。声が出ない。喉の途中で何かが引っかかって、息だけが漏れる。
「殿下」
「うん」
「声が出ません。喉が塞がって、目の奥が熱く、指が動きます」
ヴァンサン先生が横から覗き込んだ。
「喉頭の一過性の攣縮ですね。感情性のものです。器質的な異常ではありません」
「ちがう、そうじゃない」
殿下が割って入った。壁際から2歩で来ている。
先生の肩越しに、こちらを覗き込んできた。
「それ、ありがたいっていうんだよ」
「攣縮です」
「ありがたいです」
「攣縮の一種としての」
「先生、黙って」
二人が言い合っているあいだに、わたくしは膝の上で帳面を広げた。
8日ぶりだ。表紙が少し反っている。閉じているあいだに紙が湿気を吸ったらしく、頁のめくれ方が重い。
『ありがたい——習得』
書いた字は震えていない。
書き終えたところで、喉のつかえが少し下りた。名前をつければ棚に入る。棚に入れば持ち歩ける。8日かかったのは、その一つを確かめるためだった。
ティルダが包みを卓に置いた。中身は焼き菓子だった。パン屋の二階で焼いたのだという。片側だけ焦げている。
「焦げております」
「妹が焼いたのです。姉の癖がうつったと」
わたくしは焦げた側から食べた。誕生日の朝、殿下がそうしていた。
診察道具を片づけながら、ヴァンサン先生がふと手を止めた。
「ところで、確認させてください」
彼は鞄の蓋を閉じかけた手を止めて、こちらに向き直った。
「5つのときの診断名を、もう一度おっしゃってください。正確に」
「心の臓に、欠けがございます」
留め金の壊れた鞄が卓の上で止まった。
「……もう一度」
「心の臓に、欠けがございます」
先生は顔を上げた。さっきまでの早口が消えている。
「それは、診断名ではありません」
「え」
「『心の臓の欠け』という病名は、医学に存在しません。医学院の5年で、教科書にも症例集にも、そんな語は1行も出てきませんでした」
藁の匂いがしている。庭師が犬小屋に足す日だ。
「では、あれは何ですか」
「分かりません」
彼は鞄の留め金を握ったまま、そこを見ていた。
壊れた片方の金具が、指の下で小さく鳴る。
「ただ、医師が患者の家族に告げる言葉ではありません。病名というのは、聞いた別の医師が同じものを思い描けなければ意味がない。あれは、誰にも通じない」
「12年、どなたも気づかなかったのですか」
「誰も、あなたを診ていないからです」
ティルダの膝が卓の脚に当たって鳴った。殿下は壁際で動かない。
わたくしは目を閉じた。
白い髭。節くれだった指。低く掠れた声。
顔だけはこんなにも鮮明に残っている。




