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令嬢はこの気持ちの名前を知らない 〜「心がない」と婚約破棄された悪役令嬢に、殿下が感情をひとつずつ教えてくれます〜  作者: 夜凪 蒼


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第17話 嘘をついた日の紅茶は

嘘は思っていたよりずっと簡単に口から出た。


秋の初めの茶会だった。王城の南の広間で、窓の外の楡が色を変えはじめている。卓には梨と葡萄が積まれ、給仕が銀の匙を配って回っていた。


ヴィオレット嬢は、わたくしの隣の席をわざわざ選んで座った。


「オルコット様。侍女がお戻りになったそうですわね」


「はい」


「よろしゅうございました。……あの子、一度お暇をいただいたと伺いましたけれど」


耳の裏が痒くなる。この型はもう慣れた。慣れたので、書かなくても分かる。


「どちらでお聞きになりましたか」


「屋敷の外まで聞こえておりますのよ。奉公先を自分から離れる者は、そう多くありませんもの」


彼女は梨を一切れ取って、口をつけずに皿へ戻した。


「南の商会に、店を出したいと相談していらっしゃるとか。焼き菓子の」


指の先が冷えた。


その話をヴィオレット嬢が知っている理由は1つしかない。南の商会はモルガン侯爵の息がかかっている。庇護というのはそういう向きにも流れるものらしい。


「商会は身元を見ますわ。前の奉公先を勝手に離れた者となると、話は難しゅうございましょうね」


「そうですか」


「わたくしが一言申し上げれば、あの子の店の話は消えますのよ」


彼女は声を落とした。落としても語尾だけが跳ねる。


皿に戻された梨には、歯の跡が1つもついていない。


「これは、あなたのためを思えばこそ申し上げるのですけれど。あんな侍女、お手放しになったほうがよろしいわ」


これで四度になる。


言い回しは変わっている。中身は変わっていない。園遊会のときは天幕の下に人が10人以上いた。今は声を落とせば届かない距離に3人しかいない。


人が少なくても使うらしい。条件のほうを書き直さなければならない。


わたくしは葡萄を1粒取って、皮を剥いた。


剥きながら考えた。


事実を並べてもこの人は退かない。園遊会で三度を数え上げたとき、退いたのは彼女ではなく、周りで聞いていた人たちのほうだった。


では周りが信じるものを置けばいい。


指の先の冷えがそこで少し引いた。引いた瞬間に、口が先に動いていた。


「ダルクール様」


「はい」


「ティルダは、暇を願い出ておりません」


「まあ。けれど噂では」


「わたくしが12日、実家へ遣わしました。母親が寝込んだと知らせが来ましたので」


広間の音が少しだけ遠のいた。


「その間は、屋敷の古参の女中に代行させております。名は申し上げませんが、母の輿入れの前からおります者です。馬車は屋敷のものを使わせ、御者は南の門から出しました」


ヴィオレット嬢の唇が動いた。門の名を、声にせずに口だけで繰り返している。


扇の骨が1本、指の下でわずかに反った。


「東の門は先月から石を積み直しております。ご存じありませんか」


ヴィオレット嬢が言葉に詰まった。


門の工事は本当だ。嘘の中に本当を1つ混ぜると、残りまで本当に見える。誰にも教わっていない。教わっていないのに、口が勝手にそうした。


わたくしは正確な日付を3つ言った。


出発した日。途中で1泊した宿の名。戻った日。全部その場で作ったものだ。作ったのに、口はよどみなく動く。


宿の名だけは去年の遠出のときに通りかかった実在の宿を使った。確かめられても崩れない。


「戻った翌日、わたくしはあの子に給金を1か月ぶん先渡ししております。屋敷の出納には残っておりますので、お確かめになりますか」


ヴィオレット嬢の扇が、開いたところで動かなくなった。


「……それは」


「噂のほうが間違っております」


周りで聞いていた令嬢の一人が小さく息を吐いた。


「まあ。ではやはり、噂は噂ですのね」


「オルコット様は、嘘をおっしゃらない方ですもの」


その一言がいちばん深く刺さった。


12年、わたくしは事実しか言わなかった。言えなかった、というほうが正しい。沈黙も皮肉も使えないので、聞かれたことに聞かれたとおりに答えるしかない。


おかげで、わたくしの言うことは疑われない。悪魔だの人形だのと呼ばれていても、そこだけは誰も疑わなかった。


疑われないという性質は、こういうときに武器になる。


ヴィオレット嬢は梨の皿を押しやって、話題を秋の狩りのことに変えた。それきり、ティルダの名前は出さなかった。


帰りの馬車で、わたくしは今日の記録をつけた。ヴィオレット嬢の扇の止まった位置。令嬢たちの息の吐き方。門の工事の話が出たときの、周りの頷き方。


書きながら、ずいぶん筆が速いことに気づいた。うまくいった日はいつもそうだ。


夜、屋敷の自室で茶を飲んだ。


ティルダが淹れたものだ。手順はいつもどおりで、湯の温度も茶葉の量も変わらない。


一口飲んで、わたくしは茶碗を見た。


「ティルダ」


「はい」


「茶葉を変えましたか」


「いつもと同じものでございます」


「そうですか」


もう一口飲む。


温かいのは分かる。液体が喉を通るのも分かる。渋みがない。甘みも香りもどこにもない。


3杯飲んだ。3杯とも同じだった。


舌が壊れたのかと思って、卓の葡萄を1粒食べてみた。甘い。塩をなめてみた。塩の味がする。


茶だけが分からない。


口の中がざらつく。飲み込むときに喉が抵抗する。舌の上に何もないのに、何かが残っている感じがする。


体の記録は正確につけてきたつもりだ。それでも味が消えるという症状は12冊のどこにも書いていない。熱でも疲れでも、こうはならなかった。


「お嬢様」


「はい」


「今日、何かございましたか」


わたくしは茶碗を置いて、その日のことを順に話した。


ヴィオレット嬢に言われたこと。商会のこと。それから、自分が並べた嘘を1つずつ。日付のことも宿の名のことも、全部作ったものだと言った。


ティルダの手から力が抜けた。頬の血の色が引いていく。


「……お嬢様が、嘘を」


「はい」


「なぜ、そんなことを」


「必要でしたので」


彼女は盆を胸に抱えたまま、しばらく黙っていた。それから、思いのほか強い声で言った。


「二度と、なさらないでください」


「なぜですか。うまくいきました」


「うまくいったから、怖いのでございます」


盆の縁を握る手に力が入っている。震えてはいない。


蝋燭の火が一度伸びて、また縮んだ。


「お嬢様の言葉は、誰にも疑われません。12年、事実しかおっしゃらなかったからです」


ティルダは盆を下ろした。


卓の上で、茶碗が3つ並んだままになっている。


「その12年を、今日、お使いになりました」


「はい」


「一度使えば、次も使えます。次も使えば、そのうち区別がつかなくなります。……わたしのために、それをなさらないでください」


わたくしは帳面を引き寄せた。


書くことは決まっている。今日の体の状態だ。茶の味が分からないこと。喉が抵抗すること。ティルダの顔を正面から見られないこと。


『気持ち悪い——習得』


書き終えたところで、ティルダが頁を覗き込んだ。


盆を持ったまま、肩ごしに首を伸ばしている。


「お嬢様。それは、気持ち悪いではございません」


「では、何ですか」


「うしろめたい、と申します」


知らない語だ。12冊のどこを探しても出てこない。


「悪いと分かっていることを、して、そのままにしているときに出ます」


わたくしは横線を1本引いた。夏に引いたものと、ちょうど同じ長さになる。


『うしろめたい——習得』


書き直してから、鉛筆を止めた。


「ティルダ」


「はい」


「これは、いつ消えますか」


「消えません」


「では、どうするのですか」


「たいていの方は、そのまま持って歩かれます」


彼女は空いた茶碗を盆に載せた。


3つとも、半分残ったままだった。


「持って歩くのが嫌になったら、なさったことのほうを直します。そういう順でございます」


嘘の中身のほうを、わたくしはまだ書いていない。


宿の名も出発した日も、給金の話も、1行として書き留めていない。書けば残る。残れば、10年後のわたくしがそれを読む。


読んだわたくしは、たぶん同じことをもう一度する。今日より上手に今日より速く。


新しい頁を開いて、日付だけを書いた。


その下は空けたままにする。


白いままの一頁は、焼けた1冊目の抜けた場所と、ちょうど同じ形をしていた。

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