第18話 記録も証人も、もういない
診療記録は17年分そろっていた。わたくしの分をのぞいて。
王立医学院の記録庫は地下にある。石の棚が壁の端から端まで並んで、年ごとに紐で綴じた綴りが押し込んであった。
黴と古い糊のにおい。息を吸うと喉の奥がざらつく。
ヴァンサン先生は4日かけて閲覧の許可を取った。孫弟子の縁と、開業医の資格と、それから王子の名前を1つ借りて。
「オルコット家の分はここです。……ええと」
彼は棚の綴りを次々に抜いた。抜いては戻し、抜いては戻す。
指の動きが速すぎて、紙の端が音を立てた。
「父君の記録。母君の記録。使用人の分まであります。1つの家でこれだけ残っているのは珍しい」
「では、わたくしのものは」
「……ありません」
彼は同じ棚をもう一度端から見た。次に上の段、その次に下の段。それから隣の棚まで手を伸ばして、綴じ紐の色を確かめている。
「差し違えということもあります。年をまたいで綴じられている場合が」
「先生」
「もう一度だけ」
彼は4度確かめた。
わたくしは棚のあいだに立って、石の床の冷たさが靴を通ってくるのを数えていた。数えるものが他になかった。
棚は左右に14列。1列あたり6段。綴りの背には年が書いてあって、古いものほど紐の色が褪せている。
12年前の綴りだけ、背表紙の並びが1つぶん詰まっていた。
抜いたあと、誰かが両側から寄せたのだろう。埋めておけば、抜けたことに気づかれない。わたくしの机の上の空白とは逆の考え方だ。
殿下は入口の柱にもたれて、腕を組んだまま動かない。ここへ来てから一言も喋っていなかった。
「処分簿を見ます」
先生は別の棚から薄い綴りを引き出した。
処分簿というのは、記録を廃棄したときの控えらしい。日付と、綴りの番号と、申し出た者の名前を書く欄がある。
彼の指が止まった。
「……ありました」
「なんと書いてありますか」
「『オルコット公爵家・長女分。家人の申し出により処分』。日付は3年前の2月です」
「では、誰の名が書いてありますか」
「空欄です」
先生は綴りを卓に置いた。
「あり得ません。この欄は必ず埋めます。埋めないと処分できない決まりですから」
「書き忘れでは」
「書き忘れなら、あとから書き足せばいい。埋めていないのは、書けなかったからです」
石の壁に反響して、彼の声だけが大きく残った。
棚と棚のあいだに、その残りが長く漂う。
「では、誰が処分させたのですか」
「分かりません」
わたくしは続きを待った。先生は綴りの表紙を指の腹で叩いている。
「この空欄には、たどる先がないという意味です」
「係の方に伺えば」
「当時の係は、もう替わっています。……そこも確かめました」
わたくしは処分簿を覗き込んだ。
前後の頁にはどれも名前が書いてある。細かい字で几帳面に。空欄はこの1行だけだ。
書かないという選択を、誰かが一度だけした。
書かなければ残らない。残らなければ、なかったことになる。
わたくしと同じ考え方をする人間が、12年前とその年に、それぞれ一人ずついたことになる。
その日の午後、わたくしたちはバルテルミーという医師の家を訪ねた。
王都の東の、細い坂を上ったところにある小さな家だった。表札は別の名前になっている。
出てきたのは仕立屋の主人で、同じ年にこの家を買ったのだと言った。
「前の持ち主は、亡くなられたんでさ」
「いつですか」
「わしが買った年ですから、一昨々年で。冬だったと聞いてます」
「ご遺族は」
「おられませんでしたよ。だから家が売りに出たんで」
「どのような方でしたか」
「さあ。人づてに聞いた話ですがね、晩年はずいぶんいい暮らしをしておられたそうで。医者にしては珍しいと、この辺じゃ言われてました」
ヴァンサン先生の肩が、そこで一度だけ動いた。
「書き物や、紙の類は」
「ありましたねえ。ずいぶんな量が。……焼きましたよ、全部。うちは布を置くので、湿気るのは困りますから」
主人は悪びれなかった。悪びれる理由がない。買った家の中にあった紙を、買った人間がどうしようと誰も咎めない。
坂を降りるあいだ、ヴァンサン先生は一言も喋らなかった。
途中で立ち止まって、振り返って、また歩き出す。それを6度繰り返した。
「先生」
「……あの人は」
彼の声が掠れている。
言い直すまでに、坂を数歩降りるだけの時間がかかった。
「あの人は、僕に病名の書き方を教えた人です」
「はい」
「病名は他の医師が聞いて同じものを思い浮かべられなければ意味がない。そう言ったのは、あの人です」
坂の上で烏が鳴いた。
先生は上を見なかった。
「その人が、通じない病名を1つだけ作った。記録は3年前に消えて、本人も同じ年に死んでいます」
「先生は、どうお思いですか」
「思いたくありません」
彼は足を止めて、こちらへ向き直った。
「僕の所見は書けます。あなたの体に病はない、と。でもそれは僕一人の意見です。12年前の診断を覆すには足りません。診た医師も、記録も、もういない」
「ほかの方に診ていただいても」
「同じことです。今のあなたを何人が調べても、12年前に何と言われたかは証明できません。当時の記録がないので」
「では、その場にいた方は」
「弟子が4人おりました。一人は死に、二人は地方へ移り、残る一人は連絡がつきません」
先生は袖で顔をこすった。
「僕が来たのが遅すぎたんです。3年、間に合わなかった」
「では、証明はできないのですか」
「今のところは」
坂を降りきったところで、わたくしは自分の体を確かめた。
脈はいつもの速さで額に熱もない。喉は締まらず、指も震えていない。目のふちは乾いたままだ。
耳の裏も胸の奥も、何ひとつ動かなかった。
何も出なかった。
12年、わたくしは心の欠けた娘として扱われてきた。その根拠が嘘かもしれないと分かって、それを証明する道が今日すべて塞がった。
それなのに体は静かなままだ。
中庭でティルダが侮られたとき、この手は勝手に動いた。殿下が落ちた朝には、聞いたことのない高さの声が出ている。パン屋の二階では水まで出た。
わたくし自身のことになると、この体はいつも黙る。
この半年で13。13とも引き金は自分の外側にあった。
体のほうが先に知っているのだろう。誰のために動くかを、わたくしより正確に。
「リディア嬢」
殿下が横に並んだ。
「なんともないの」
「何も出ておりません」
「そう」
坂を降りきった先で、車輪の音が近づいてくる。迎えの馬車だ。
「殿下。これは、おかしいことですか」
彼は市の音のほうを見ていた。
坂の下の通りは市が立っていて、人の声が高い。その中で、殿下の顔だけが妙に静かだった。
「……ぼくは、それがいちばん腹が立つ」
馬車に乗ってから、わたくしは帳面を出した。
書くことはある。記録庫の棚の数。処分簿の空欄。仕立屋の主人の言葉。坂の勾配。
殿下は向かいに座って、窓の外を見ていた。市の灯りが後ろへ流れていく。
「殿下」
「うん」
「先生は、間に合わなかったとおっしゃいました」
「うん」
「3年、と」
彼の膝の上で、組んだ指がほどけた。ほどけたあと、膝の布を握る。
わたくしは芯を紙に戻した。
日付を書こうとして、そこで芯が紙から浮いた。
3年前。
聞き覚えのある数だ。どこで聞いたのかはすぐに分かった。
わたくしは11冊のいちばん古い頁ではなく、感情の名前を書きはじめた頁の最初へ戻った。あの夜のことは全部書いてある。杯を頭からかぶった人がいたこと。耳が赤かったこと。言った言葉も。
『怒り——未取得』の少し下にその一行がある。
『ぼく、3年待ってた』




