第19話 あなたは、いつから知っていたのですか
『ぼく、3年待ってた』
その一行を開いたまま、わたくしは机の上に帳面を置いた。
昨夜のうちに、頁の角を折っておいた。紙を痛めるので、いつもならしない。
聞き方は考えなかった。考えてもわたくしは事実しか言えない。
殿下は今日も椅子を逆向きにまたいでいる。いつもの座り方だ。頁を覗き込んで、そこに何が書いてあるかを読んで、それから顔を上げた。
「うわ。ぼくの台詞、記録されてる」
「はい」
「怖いなあ、君」
「殿下」
「うん」
「バルテルミー先生がお亡くなりになったのは、3年前です」
窓の外で、楓の葉が落ちていく。晩秋の風は乾いていて、庭の砂利が白く見えた。
殿下は葉の落ちるほうを見ていた。
それから、机の縁に指を置いた。
1、2、3。
乾いた音が落ちて、そのまま部屋の隅で消えた。
「……何の話?」
「先生の記録が処分されたのも、同じ年の2月です」
「ふうん」
「殿下がわたくしを待ちはじめたのも、3年前です」
「そういえばさ」
彼は身を乗り出した。
「今日の実験なんだけど、秋のうちにやりたいのが1つあって、落ち葉を集めて——」
「殿下」
「うん」
「話を変えないでください」
指がもう一度、机の縁を叩いた。今度は数えなかった。数える必要がない。
わたくしは椅子を引いて、彼の正面に座った。
「殿下は、わたくしが初めて夜会に出た晩から待っていたとおっしゃいました」
「言った」
「なぜ、その晩だったのですか」
「君が、ものすごく変な顔で立ってたから」
「その晩の前は、わたくしは屋敷から出ておりません。殿下がわたくしを知る機会はありませんでした」
殿下は頷いただけだった。
「王城の名簿にも、わたくしの名は載っておりません。14の年まで、公の場に出たことがないからです」
今度は頷きもしない。
「では、なぜ、あの晩にわたくしを見に来られたのですか」
その問いだけ、返事がなかった。
「なぜ、継承権をお捨てになったのですか」
「それは前に言った。面倒だから」
「面倒な方は、朝の7時に他家の窓へ来られません」
彼の喉が動いた。
椅子の背もたれを掴んだ指が、木目の上をわずかに滑った。
「殿下」
「……うん」
「わたくしには、筋道を立てるということができません。書いてあるものを並べることしか、できません。……それでも、数だけは合っております」
殿下は口を開けて、そのまま声を出さなかった。
わたくしは待った。待つあいだ、彼の顔の型を数えた。眉が動かない。瞬きが減っている。喉が一度上下した。
嘘をつく前の型と一致する。書き溜めた頁が何十枚もあるので、見間違えようがない。
それでもこれまで記録してきた誰の型とも違うところが1つあった。
嘘をつく人はたいてい視線を外す。殿下はまっすぐこちらを見たまま黙っている。
「リディア嬢」
「はい」
「それ、今は言えない」
答えのかわりに、短い息が返ってくる。
わたくしは同じ問いを、形を変えてもう一度置いた。
「言えないのですか。それとも、言わないのですか」
風が窓を鳴らした。
殿下はしばらく黙っていた。それから、ずいぶん正直な顔で答えた。
「……言わない」
わたくしは頷いた。
頷いてから、自分の中で何かの順番が組み替わるのが分かった。
「殿下。数えてもよろしいですか」
「なにを」
「損をした方の数です」
わたくしは帳面をめくった。
12年ぶんの記録がある。日付順に、人の顔と、その顔が出てきた場面が並んでいる。この頁を使う日が来るとは思っていなかった。
顔の型を書いてきたのは、次に同じ場面が来たときに間違えないためだ。誰かを責めるために書いたことはない。
それでも並べれば数になる。
「母はこの3年、わたくしの誕生日の朝に、二度だけ階段の上まで来ております」
「……え」
「二度とも、降りずに戻りました。一度目は8つ数えるあいだ、二度目は今年で、17を数えるあいだそこにおられました」
殿下が、椅子の背から背中を離した。
「ティルダは、同じあいだに41回泣いております。うち28回は、わたくしが言われたことに対してです。本人はわたくしの代わりに泣いていたと申しております」
「リディア嬢」
「ヴァンサン先生は昨日、坂の途中で6度立ち止まられました。先生は師を尊敬しておいででした。今日から、疑わなければなりません」
わたくしは帳面を閉じた。
表紙に手を置いたまま、数えた行を頭の中でもう一度並べ直す。
「殿下が黙っておいでだった3年のあいだに、これだけのことが起きております。全部が殿下のせいだとは申しません。ですが」
そこで喉が塞がった。
塞がったのを押しのけて、言葉を出す。
「殿下は、知っておいででしたね」
殿下は何も言わなかった。
反論もしない。話も変えない。指も動かさない。ただ、椅子の背もたれに置いた手だけが、少しずつ白くなっていく。
否定してくださればいい、とわたくしは思った。
ちがう、と一言おっしゃれば、わたくしはそれを信じる。事実を並べるのは得意でも、人の言うことを疑う訓練は受けていない。
彼は否定しなかった。
「殿下」
「うん」
「わたくしは、あなたを信じておりました」
言ってから、自分でその言葉に驚いた。
信じるという語を、わたくしは使ったことがない。使えるとも思っていなかった。それが今、何の準備もなく口から出ている。
信じていたと分かるのは、たぶん、信じられなくなったときだけだ。
殿下が立ち上がった。
「今日は帰る」
「はい」
「明日は」
彼はそこで言葉を切って、それから、言い直した。
「……また来ていい?」
わたくしは答えなかった。
答え方の頁をまだ作っていない。
彼は窓の桟に手をかけて、いつもの動作で外へ出ていった。楓の枝が鳴る音が、いつもより長く続く。
しばらくして、扉が細く開いた。
ティルダが盆を持って立っている。中身は茶だが湯気の量からすると淹れてからずいぶん経っていた。廊下で待っていたのだろう。
「お嬢様」
「聞いておりましたか」
「聞こえておりました。……申し訳ございません」
「かまいません。事実です」
彼女は盆を置いて、それから、めずらしく何も言わずに立っていた。慰めも助言も出てこない。
出てこないほうが正しい、とわたくしは思った。今日はそのやり方が合っている。
机に戻って、鉛筆を持った。
『うたがい——習得』
書き終えてから、指の色を確かめた。
これまで覚えた感情はたいてい熱かった。耳が熱い。胸が熱い。指が焼ける。喉が締まって、目の奥が熱くなる。
冷たいのはこわいとこれで2つ目だ。
爪の色が薄くなって、関節が硬い。息を吐くと、指先の温度がさらに下がっていくのが分かる。招待状の一行を読んだあの日と、指先の型はそっくりだった。
似ているのに、あちらには先があった。逃げるか、備えるか、どちらかを選べばいい。
うたがいにはその先がない。
わたくしは頁を閉じずに、しばらく眺めていた。これまで書いた13の名前が、日付順に並んでいる。14個目のこれだけが、並びから浮いて見える。
『うたがい』は誰かに向けて出る感情らしい。誰に向けるのかを、わたくしは自分で決めなければならない。
決めるという工程は、帳面には書いていない。
12年、わたくしは決めたことがない。決めるのはいつも父か母か、家庭教師か、婚約者だった。書き写す側にいれば、決めなくて済む。
今夜から、その分の頁を作らなければならない。
わたくしは立ち上がって、窓を閉めた。
12年、この部屋の窓は夜も細く開けてあった。空気を入れるためだ。ここ数か月は別の理由でも開けてあった。
今夜は開けておく理由がない。




