第20話 3年前の冬を、殿下は話し出す
霜の降りた庭に、同じ場所を踏んだ足跡が4日ぶんついていた。
楓の根元から窓の下まで。行きと帰りで重なっているので、正確な数は分からない。分かるのは毎朝そこに人が立っていたことだけだ。
わたくしは4日、窓を開けなかった。
開けない理由を、ティルダに聞かれた。答えられなかった。
冷えるからです、と言えばよかったのだとあとで気づいた。事実ではないけれど、その場は済む。嘘の便利さを、わたくしはもう知っている。
知っていて、使わなかった。使わなかった理由も説明がつかない。
4日のあいだ、書くことは山ほどあった。記録庫の棚の数、処分簿の空欄、坂の勾配。書けば整理される。整理されたものを並べても、窓のところだけが片づかない。
5日目の朝、掛け金に手をかけた。
冷たい。指が張りつきそうになる。それでも押した。
窓の外に殿下がいた。
「……おはよう」
4日ぶんの足跡の、いちばん上に立っている。挨拶を返すまでに、こちらのほうが時間がかかった。
「4日ぶり」
「5日目です。窓を閉めたのが夜でしたので」
「そういうとこだよ、君」
彼は外套の襟に顎を埋めている。前髪に霜がついていて、耳の先が赤い。何時からいたのかは聞かなかった。
「入ってください。凍えます」
「入っていいの」
「凍えられると困ります」
その日の午後、書庫にヴァンサン先生を呼んだ。
暖炉に火を入れて、卓を1つ出す。ティルダが茶を置いて、そのまま部屋の隅に立った。下がるように言わなかったのは、彼女にも聞かせるべきだと判断したからだ。
「話す」
殿下は卓の縁に指を置いた。
1、2、3。
それから、指を離した。
「3年前の冬。ぼくは16で、王都の東の坂の上にいた」
窓の外で、屋根の霜が溶けて落ちる音がする。
「同じ年の春だ。君が最初に夜会へ出た晩、ぼくは君を見た」
「はい」
「みんなが君を人形だって言うんだよ。でもぼくには、そう見えなかった」
「なぜですか」
「杯が割れたとき、君の肩が動いた。誰も見てなかったけど、ぼくは見てた」
覚えていない。あとで14の年の頁を読み返すと書いてあった。『杯の割れる音で肩が動いた。理由が分からない』。
書いたことさえ忘れていた。名前のない記述は、書いても残らないらしい。
「それで、王都じゅうの医者に聞いて回った。5つの君を診にオルコット家へ呼ばれた者は誰か、って」
「半年かかりましたか」
「かかった。夏から秋まで潰れた。王子が聞きに来ると、みんな口が重くなる」
殿下は茶碗を両手で包んだ。まだ指の色が戻っていない。
「最後に一人だけ、名前が出た。バルテルミー」
ヴァンサン先生の背筋が伸びた。膝の上の鞄が、片方の留め金だけで開きかけている。
先生はそれを直そうともせず、殿下の口元を見ている。
「行ったときには、もう起き上がれなかった。医者を呼ぶ金もなくて、部屋に薬のにおいだけが残ってた」
「先生は、なんと」
「最初は何も言わなかった。ぼくが4日通って、5日目に、向こうから話し出した。……その冬に間に合ったのは、運がよかっただけだ」
殿下は目を伏せた。
「『わたしは、金で診断を売りました』」
暖炉の薪が崩れる。誰も動かなかった。
「『オルコットの薄氷というものがあります。あの家の血に、数代に一度出る。感情が起きるのが遅くて、体に出るのが薄い。それだけです。病ではありません』」
「うすらい」
「薄い氷、って書くんだって。春先の、踏むと割れるやつ」
わたくしはその語を書き留めた。薄い氷。踏むと割れる。割れるほうではなく、遅れて張るほうを言うのだろう。
12年、わたくしの体には名前がなかった。今日、ついた。
「『弟君に金を積まれました。心の欠けた娘だと言えば、あの家の跡目は弟君に回る。わたしは、そう言いました』」
ヴァンサン先生が卓に手をついた。
「『毎年、口止め料を受け取りました。12年、一度も断りませんでした』」
「……師は」
先生の声が掠れている。
「僕に、病名は他人に通じなければ意味がないと教えた人です」
「うん。同じことを、ぼくにも言った」
殿下は先生のほうを見た。
「『わたしが作ったあの名は、誰にも通じません。通じないように作りました。だから、誰にも覆せなかった』」
先生は椅子に座り込んだ。
しばらくして、鞄から古い綴りを引き出す。医学院から借り出してきたものらしい。
「オルコット家の記録は、父君の分と母君の分が残っています。……ここに、父君の祖母君の記載がありました」
先生は頁を指でなぞった。
「『情動表出の遅延。表情筋および涙腺の反応が緩慢。壮年期に至り軽快』。診断名はついていません。当時の医師が、病名を作らなかったからです」
祖母の代の記録だ。同じものが血を通って、こちらまで来ている。
作らなかった。作れなかった、ではない。そこが引っかかった。
「作れなかったんです。病ではないので。……作った人間が、あの年に一人だけ出た」
先生の指が、頁の上の空白のところに置かれた。診断名の欄だ。
殿下が引き取った。
「証人はその冬に死んだ。記録は、その前の年に処分されてた。ぼくが調べたときには、もう何も残ってなかった」
「では、なぜ3年」
わたくしは聞いた。
「なぜ、すぐにいらっしゃらなかったのですか」
殿下は茶碗を置いた。
中身は減っていない。両手で包んでいただけらしい。
「王子のままだと、公爵家の跡目争いに手が出せない。王家が身内の相続に口を挟むと、それだけで別の話になる。だから継承権を捨てた。手続きに1年半かかった」
1年半。わたくしが14から16になるあいだ、この人は書類の上で自分の名前を削っていたことになる。
「それでも足りなかった」
彼はそこで、わたくしをまっすぐ見た。
「いちばんの理由は、それじゃない」
「はい」
「ぼくが叫んでも駄目なんだよ。君の代わりに誰が何を言っても、人形が操られてるって言われて終わる。君が自分の口で言えるようにならないと、この話は動かない」
「わたくしが」
「怒れるようになって、泣けるようになって、そこでようやく証人になれる」
ティルダが壁のところで動いた。
袖で口を押さえて、こちらを見ないようにしている。
「では、殿下は」
わたくしは自分の声が思ったより低いのに気づいた。
「わたくしが怒った日も、泣いた日も、ご存じの上で見ておられたのですね」
「うん」
「実験も、そのためですか」
殿下は首を横に振った。
「半分は、ぼくが見たかったから。……でも、あとの半分はそう」
正直だ。この人はいつも都合の悪い半分を先に出す。
わたくしは膝の上の手を見た。
肩から力が抜けていくのが分かる。息を吸ったら、いつもより深いところまで入った。座っているのに、体がひとまわり軽い。喉のあたりにずっと引っかかっていたものが、いつの間にか下りている。
「殿下」
「うん」
「体が軽うございます。肩が下がって、息が深く入ります。痛むところはありません」
「それ、ほっとするっていうんだよ」
疑いが解けたときに出るものらしい。前の頁に書いた名前と、ちょうど向かい合う位置にある。
「殿下」
「うん」
「わたくしは、証人になります」
殿下の顎が、背もたれから浮いた。
「叔父を落とすには、要るものが3つあると先生がおっしゃいました。医学の名において書かれた所見。金の動いた記録。それから、この娘は反応していたという証拠です」
「うん」
「所見は先生が書けます。記録は、まだどこにあるか分かりません。最後の一つは」
わたくしは机の上の帳面に手を置いた。
表紙の布はもう毛羽立っていて、角のところだけ色が違う。
「わたくしが書き続けたものが、そのままそれになります」
ティルダが息を呑んだ。
壁際で、盆を持ち直す音がする。
「12冊は、この娘には心がないという証拠として持ち出されました。あの茶会で。……同じものが、逆の証拠になります」
殿下は卓に肘をついて額を押さえた。
押さえた手の下から、笑っているのか泣きそうなのか分からない息が漏れてくる。
「ぼくさ」
「はい」
「3年待った甲斐、あったかも」
わたくしは頁を繰って、空いている行に鉛筆を置いた。
『ほっとする——習得』
書いた。その下は、まだ埋められない。
胸のつかえは下りている。下りた場所に、別のものが残っていた。
殿下は待った。
待っていたのはわたくしが自分で言えるようになる日だ。怒れるようになり、泣けるようになる日だ。
つまり、この人は。
わたくしが泣けるようになるのを、待っていたことになる。




