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令嬢はこの気持ちの名前を知らない 〜「心がない」と婚約破棄された悪役令嬢に、殿下が感情をひとつずつ教えてくれます〜  作者: 夜凪 蒼


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第21話 呆れるという感情の、初めての使い道

殿下が持ってきた紙の一行目には、『作戦』と書いてあった。


字は大きい。二行目に『目的——叔父の家から帳簿を取る』とあって、三行目からが手順だ。手順は7つに分かれていて、7つとも下に絵が添えてある。


「絵は必要ですか」


「あったほうが分かりやすいでしょ」


「この絵は、犬ですか」


「ぼく」


わたくしは絵を書き写した。あとで見返したときに、今日を思い出す手がかりになる。


写しながら、殿下がこれを何時間かけて書いたのかを考えた。手順が7つ、絵が7つ、そのうえ表題まである。少なくとも一晩は使っている。


叔父が領地へ発ったという話は、その前の日に届いていた。屋敷が留守になる期間は月末まで。焦る理由はたしかにある。


「作戦1。庭師に化ける」


殿下は屋敷の物置から古い前掛けを持ってきて、それを着た。麦わらの帽子まで用意している。


「どう」


わたくしは麦わら帽子の下から出ている手を見た。


「庭師の手は、爪の根元に土が入っております。関節が太く、指の腹が硬うございます。殿下の手は、紙しか触っておりません」


殿下は掌を返して、指の腹をしげしげと眺めた。それから庭に出て、花壇の土を握る。


「これでどう」


「握った跡がついております。庭師は土を握りません。掘ります」


前掛けは物置に戻った。


そのあいだにヴァンサン先生が来た。手には薬箱と、なぜか麦わら帽子がもう1つある。


「僕のぶんです」


参加するともしないとも書いていない帽子だった。


「僕は反対です。反対ですが、怪我人が出たときに誰もいないのは困るので」


先生は帽子を卓に置いて、それから殿下の作戦の紙を読んだ。読みながら、指で額を押さえはじめる。


「殿下。この『煙で目くらまし』というのは」


「うん」


「煙は呼吸器に入ります。屋敷の中には老人も子どももいます」


「そこまで考えてなかった」


「考えてください」


作戦2は煙幕だった。


ヴァンサン先生が薬草を調合して、燻すと白い煙が出る包みを作った。作れてしまうところが先生である。


裏庭で試した。


風は東から吹いていた。殿下は西に立って火をつけた。


「わ」


「殿下」


「わ、わ」


煙は真っ直ぐ殿下のほうへ流れて、彼を包み、そのまま台所の窓へ入っていった。料理番が飛び出してきて、火事だと叫んだ。


わたくしは井戸の桶の位置を思い出しながら、ティルダを先に走らせた。火事の手順は帳面の12冊目の後ろに書いてある。


煙は思ったより長く残った。台所の窓を全部開けて、風が抜けるまで30分。料理番はその日、夕餉の献立を変えると言い出した。においが移ったのだそうだ。


騒ぎが収まったあと、殿下は煤だらけの顔で座り込んでいた。


「風向き、見ました?」


「見た。……見たつもりだった」


「東から吹いております。今朝から」


「なんで知ってるの」


「洗濯係が、干す場所を変えておりましたので」


作戦3は偽の腹痛だった。


殿下が叔父の家の門前で倒れる。中へ運び込まれる。医師として同行したヴァンサン先生が診察のあいだ、わたくしが書斎に忍び込む。


説明を聞き終えた先生は、包みを片づける手を止めた。


「無理です」


「なんで」


「腹痛で人が倒れるとき、体は丸まります。膝が胸につきます。殿下は今、仰向けに寝ようとしていますね」


「え、駄目なの」


「医学的にありえません。それに、僕が診察すれば1分で仮病だと分かります。分かったうえで黙ると、僕の資格が消えます」


「そこは友情で」


「友情は資格を守りません」


先生は正しい。わたくしは先生の言い分を書き留めた。


作戦4は屋根から。作戦5は地下の水路から。作戦6に至っては、鳩を使うと書いてあった。


「鳩は何をするのですか」


「帳簿をくわえて飛ぶ」


「重さは」


「……鳩、そんなに持てないか」


「帳簿1冊で、鳩が20羽ほど要るかと存じます」


先生が横から口を挟んだ。


「鳩は訓練に半年かかります。それと、書物をくわえる習性はありません」


「なんで知ってるの、先生」


「医学院に鳩舎がありましたので」


作戦4から6までは、口に出したそばから3人で潰した。


残ったのは作戦7だった。


『正面から行く』


冬の空は低く、馬車の窓が白く曇っていた。叔父の屋敷は王都の西にあって、門から玄関まで馬車で回り込む造りになっている。


門番は丁寧だった。丁寧にこちらを止めた。


「お嬢様は、いつでもお通しするよう申しつかっております」


「では」


「ですが、本日は殿下がご一緒でいらっしゃいますので」


門は開かなかった。


「叔父は在宅ですか」


「旦那様は、月の終わりまで領地へ出ておられます」


門番は言い終えてから、余計を言ったという顔をした。門の内側へ半歩下がる。


馬車に戻るとき、殿下が門を振り返った。


「あれ、君だけなら入れるって言った?」


「はい」


「行かないでね」


「なぜですか」


「入れる家がいちばん危ないから」


門の前で、わたくしは屋敷を見上げた。


石の積み方が新しい。壁の色も屋根の瓦も、傷んだところが1つも見当たらない。オルコット邸のほうがよほど古い。


叔父は公爵家の弟で、領地は小さいと聞いている。その小さい領地から出る金でこの壁が積める。


書き留めてはおくが、意味はまだ分からない。


帰り道、殿下は馬車を降りて歩くと言い出した。歩きながら考えたいらしい。


坂の途中に大きな樅の木があって、彼はそれに登りはじめた。


「上から見たら、屋敷の間取りが分かるかも」


「馬車で小1時間の距離がございます」


「見えるかもしれないでしょ」


枝が細くなったところで彼の足が滑った。


外套が引っかかって、逆さまにぶら下がる。冬の空に、金の髪が垂れ下がった。


見覚えのある光景だった。


わたくしは走らなかった。


心臓も速くならず、喉から声も出ない。かわりに、肺の底から空気がまとまって出ていった。


「今の、なに」


樅の木からぶら下がったまま、殿下が言う。


「息が出ました」


「ため息だね」


聞いたことのある語だ。屋敷の者が、わたくしの後ろでよく出していた音でもある。


「呆れたときに出るやつ。……ぼく、いま呆れられてる?」


「分かりません。ですが、体はそう言っております」


わたくしは殿下の下へ行って、外套の裾を引いた。彼は枝から手を離して、雪の残った草の上に落ちた。


先生が駆け寄って、脈を取って、それから低い声で言った。


「医学的にありえません」


「まだ何も言ってない」


「本日、5回目です」


殿下は草の上に大の字になったまま、白い息を吐いた。


雪の粒が外套の上で溶けずに残っている。しばらく、誰も立ち上がらなかった。


「今日、何も取れなかったね」


「帳簿には触れてもおりません」


「作戦、全部だめだった」


「7つとも空振りです」


「うわあ」


「ですが、分かったことが2つございます」


彼が首だけこちらへ向けた。


「叔父の屋敷は、月末まで留守です。それと、わたくし一人なら門が開きます」


「だから行かないでって言ったでしょ」


「参りません。決めた理由のほうを、書いておきたいだけです」


その夜、わたくしは帳面を膝に載せて頁を繰った。


『あきれる——習得』


その下に書き足す。


『息がまとまって出る。心臓は速くならない。危ないと思っているのに、体が慌てない』


書きながら、少し考えた。


怒りのときは体が先に動いた。こわいのときは指が冷えた。あきれるはそのどちらでもない。危ないと分かっているのに体は慌てず、息だけが出ていく。


止めなければ、と思ったからだ。


止めるためには慌てないほうがいい。体はそれを知っているらしい。


『あきれるは止めたい相手にしか出ない』


書いてから、その一行をしばらく見ていた。


殿下が樅の木から落ちても、わたくしは走らなかった。走らなかったのは、走っても間に合わないと分かっていたからだ。分かったうえで、次にどうするかを体が先に決めていた。


半年前のわたくしなら、あの場で距離を測っていただけだろう。測って、書いて、それで終わりだ。


今日は外套の裾を引いた。


そこへ、ティルダが盆を持って入ってきた。


盆の上に、封蝋の押された手紙が1通。


蝋の色は薄い紫で、押してある紋章に見覚えがあった。


ダルクール家のものだ。

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