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令嬢はこの気持ちの名前を知らない 〜「心がない」と婚約破棄された悪役令嬢に、殿下が感情をひとつずつ教えてくれます〜  作者: 夜凪 蒼


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第22話 敵の目にも、水は溜まる

手紙には日付と時刻と、屋敷の名だけが書いてあった。


最後に一行。『侍女はお連れになってかまいませんわ』


ティルダがその行を読んで眉を寄せた。


「お嬢様。これは、罠でございます」


「そうかもしれません」


「では」


「ですが、あの方がこの一行を書いた理由に興味があります」


夏に届いたもう1通の招待状には、逆のことが書いてあった。ヴィオレット嬢はそれを知っている。知っていて、わざわざ逆に書いてきた。


意味があるはずだ。意味のない一行をあの方は書かない。


殿下は反対した。ヴァンサン先生も反対する。それでもわたくしは行くと決めた。


決めるという工程を、わたくしは最近やっと覚えた。覚えたてなので、決めたあとに手が冷たくなる。


「せめて外で待ってる」


「門の内には入れません」


「じゃあ門の外にいる」


そういうことになった。


モルガン侯爵邸に着いたのは、指定の刻限より少し前だった。


冬の庭は葉が落ちて、噴水の水が止まっている。夏に天幕が張られていた場所には何も残っていない。


案内されたのは広間ではなく、その隣の控えの間だった。


「こちらでお待ちくださいませ」


侍従が出ていくと、扉が半分開いたままになった。


閉め忘れではない。取っ手に手をかけたまま、あの侍従は一度こちらを見た。開けておけ、と言われている顔だった。


隙間の向こうは広間だ。


声が聞こえてきた。


「——ですから、もう、どうしてよいのか分かりませんの」


ヴィオレット嬢の声だ。いつもの震え方をしている。


「父は寝込んだきりで、屋根の修繕にも手が回りませんの。冬を越せるかどうか」


「困ったものだ」


低い男の声。モルガン侯爵だ。


「先月も出したばかりだぞ」


「申し訳ございません。閣下だけが頼りですの。……わたくし、閣下がいらっしゃらなければ、とうに」


言葉が途切れる。


わたくしは扉の隙間から広間を見た。


ヴィオレット嬢が、侯爵の前で床に膝をついていた。両手を胸の前で組んで顔を伏せている。肩が細かく上下していた。


侯爵は椅子に深く座って、その様子を上から眺めている。


「泣くな。私が悪いことをしているようだ」


「申し訳ございません」


「まったく、かわいそうな子だ」


侯爵の口の端が上がった。


眉が下がり、目尻のあたりに深い皺が寄っている。憐れむ人の型と、細部まで揃っていた。


揃いすぎている。


叔父と同じ顔だ、と思った。


あの日、玄関で両手を広げた叔父も、この角度で眉を下げていた。かわいそうに、と言うときだけ、頬のいちばん高いところが動く。


憐れむ人の顔には2種類あるらしい。


胸が痛む側の顔と、胸が満たされる側の顔だ。1つ目はティルダのもので、2つ目がこれになる。


新しい分類だ。書き足しておかなければならない。


侯爵は書き物机から紙を取って、額を書き入れ、署名した。ヴィオレット嬢が両手でそれを受け取る。


「ありがとうございます。閣下、本当に、わたくし——」


「もうよい。下がりなさい」


彼女は退がった。退がりながら、一度だけ扉のほうを見た。


わたくしと目が合った。


見せたのだ、と分かった。


15分ほどして、ヴィオレット嬢が控えの間に入ってきた。


扉を閉めて、背中で押さえて、それから顔を上げる。


さっきまでの型は、どこにも残っていなかった。


「ご覧になりまして?」


「はい」


「感想は」


「ダルクール家の収入は、モルガン侯爵の憐れみだと理解いたしました」


彼女の頬が引きつった。


「……はっきりおっしゃいますのね」


「事実で答えるようにしております」


彼女は扇を開かなかった。夏の白い扇は、今日は帯に差したままになっている。


もう隠すものが残っていないのだ。


「わたくしは、生まれてからずっとあれをしております。父が寝込んだのは本当ですわ。屋根も本当。……けれど、泣くところは練習しました。8つのころから」


わたくしが帳面をつけはじめたのは5つだった。この方は8つで泣き方を習っている。二人とも、書いてあるとおりにやってきたことになる。


「母に教わりましたの。閣下は、憐れむ相手をお手元に置いておきたい方ですから。不幸でいるかぎり、うちは食べていけますのよ」


噴水は止まったままで、水の音がしない。


「ですから、わたくし、あなたが憎うございましたの」


「わたくしが」


「あなたが感情をお持ちになるたび、わたくしの居場所が減りますのよ。人形が名前を覚えていく。ならば、いちばん不幸なのは誰? わたくしですわ。生まれたときから、そう決まっておりましたのに」


彼女の声は震えていなかった。


震えていないほうの声を、わたくしはここで聞いた。


「オルコット様」


「はい」


「その顔、おやめになって」


「顔」


「憐れんでいらっしゃるのでしょう。わたくしを」


胸の奥が下がった。


耳も熱くなく、指も冷えていない。かわりに、みぞおちのあたりが重い方向へ沈んでいく。喉の奥がぬるい。目のふちが少し湿って、けれど落ちるほどではなかった。


顔を見ていられる。見ていられるのに見ていたくない。


「これは、何ですか」


「……あなた、ご自分の感情をわたくしにお聞きになりますの?」


「他に聞ける方がおりません」


ヴィオレット嬢は壁にもたれた。帯に差した扇に手をやって、抜かずに離す。


「あなた、こわい方ね」


「よく言われます」


「わたくし、8つのころから泣く練習をしております。閣下の前では、目の高さも計っておりますのよ。……あなたは、そういうものを1つも持たずに、ここまでいらしたのでしょう」


「持ちようがありませんでした」


「そこがこわいのですわ」


彼女は指で目のふちを押さえた。押さえてから、その指を見て、少し驚いた顔をする。


濡れていた。


「あら」


「ダルクール様」


「これは違いますのよ。……練習でも、閣下のためでもございませんの」


「はい」


「困りましたわね。この水には、使い道がございませんの」


彼女は手を下ろして、そのまま続けた。


「かわいそう、と申しますのよ」


さきほど広間で、閣下が同じ語を使っていた。


声の高さも、間の取り方も、この方のとはまるで違う。


「憐れみですわ。閣下がわたくしにお向けになるものと、同じ」


わたくしは紐から鉛筆を外した。


『かわいそう——習得』


書きながら、その下に付け足す。


『名前を教えたのは、味方ではなかった』


「書かないでくださる?」


「書きます。忘れてしまいますので」


「……ほんとうに、いやな方」


彼女は壁から離れて、卓のところまで来た。


それから、思いのほか静かな声で言った。


「帳簿がございますわ」


わたくしは顔を上げた。


「オルコット様の叔父上が、12年つけておいでのもの。閣下の書き物机の話を、わたくし、何度も横で聞いておりますの。憐れまれている者の前では、みなさま口が軽くなりますから」


「どこにありますか」


「場所は存じません。あることだけは確かですわ」


彼女は扇を開いて、その陰に口元を入れた。


隠したのに、今日は震えていない。


「差し上げてもよろしゅうございます」


「条件がおありですね」


「ええ」


ヴィオレット嬢は扇の上から、まっすぐこちらを見た。


「一つだけ。呑んでいただけるなら、探して差し上げますわ」


門を出ると、殿下が石垣に腰かけて待っていた。


外套の肩に霜が降りている。どれだけそこにいたのかは、また聞かないでおいた。


「どうだった」


「泣かれました」


「え、君が?」


「ダルクール様が」


殿下の眉が上がる。


「あの子、泣くのうまいでしょ」


「今日のは、練習していないほうでした」


馬車に乗ってから、わたくしは書きかけの頁を出した。


書くことは決まっている。憐れむ人の顔が2種類あること。侯爵の署名の入った紙。ダルクール家の屋根。


それから、条件のこと。


条件が何かはまだ聞いていない。聞かなかったのは、聞けば答えが決まってしまう気がしたからだ。


帳面のいちばん新しい頁に、行を1つ空けておく。


条件は明日その空きに入る。

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