第23話 わたくしの侍女が、前に出ます
その朝、殿下は賞状を持ってきた。
金の縁取りがしてあって、真ん中に大きな字で『よくやりました』と書いてある。下に本人の署名まで入っていた。
「今日は、ほこらしいを取る」
一覧の下のほう、まだ空欄の並んでいるあたりにある名前だ。
「胸が張るやつ。褒められて、自分がすごいと思ったときに出る」
わたくしは賞状を受け取って、両手で持って、しばらく眺めた。
「紙がよいものですね」
「そこ!?」
「王家の紙は目が詰まっております。鉛筆の乗りがよさそうです」
「使わないで。飾って」
飾る場所がなかったので、机の脇に立てかけた。胸は張らなかった。
殿下はそのあと、屋敷の者を集めて拍手をさせた。31人が並んで手を叩く。壮観ではあったが、こちらの体はどこも動かない。
「なんで効かないの」
「褒められると、確認してしまいますので。その評価が妥当かどうかを」
殿下は賞状の前で膝をついた。
条件はその日の昼に届いた。
紙は1枚きりで、書いてあるのも1行だけだった。
『あの侍女を、証言の場に出さないこと』
わたくしはその行を3度読んだ。3度読んでも意味は変わらない。
「なぜ、とは書いてありません」
「理由なら見当がつきます」
ヴァンサン先生が紙を裏返しながら言った。裏には何も書いていない。
先生は今日、賞状の件で呼ばれて来た。呼ばれた理由を聞いて「医学的にありえません」と言い、それから帰らずに残っている。
「あの侍女さんは、あの夜会から今日まで、全部その場にいます。葡萄酒のことも、噂の出所も、焼けた帳面のことも。……ダルクール家とモルガン侯爵にとって、いちばん都合の悪い目撃者です」
「そうなりますね」
「呑みますか」
「呑めません」
わたくしは即答した。即答したことに自分で少し驚いた。
いつもなら条件を分解して、得と損を並べて、それから答えを出す。今日は分解する前に口が動いた。
殿下が卓の向こうで身を乗り出した。
「なんで」
「証言の場に出さないというのは、ティルダに嘘をつかせるということです」
「うん」
「わたくしは一度、嘘をつきました。ティルダを守るためです」
紅茶の味が消えた夜のことは、頁を空けたまま残してある。
日付だけが書いてあって、その下が白い。
「あのとき、ティルダに言われました。二度となさらないでください、と。うまくいったから怖いのだ、とも」
「うん」
「わたくしがまた同じことをすれば、あの人の言ったことに意味がなくなります」
殿下が口を開けたまま黙った。
先生が咳払いをして、それから、少し困った顔をした。
「では、帳簿は」
「別の道を探します」
道があるのかとは、誰も聞かなかった。聞かれても答えは同じだった。
「……お嬢様」
扉のところで声がした。
ティルダが立っていた。盆は持っていない。手ぶらで、しかも扉を閉めてこちらへ歩いてくる。
「聞いておりました」
「はい」
「わたしは、出ます」
先生が椅子から半分だけ腰を浮かせた。
「危険です」
「存じております」
「モルガン侯爵は、あなたの奉公先の話を潰せる立場です。店の話も消えます」
「はい」
「妹君のところにも人が行くかもしれません」
「その話も、いたしました。妹は、行けと申しました」
ティルダは卓の前で足を止めた。背筋が伸びている。
盆を持つときの猫背が、今日はどこにもない。
「お嬢様」
「はい」
「わたしは12年、見てまいりました」
「はい」
「見た者が黙っていては、記録になりません」
わたくしの言葉だった。
いつ言ったのかは思い出せない。忘れてしまいますので、と言ったことは何度もある。この人はそれを12年聞いていた。
「わたしにできるのは、そこまででございます」
盆のない手が、まっすぐこちらに見えていた。
手のひらに、細かい傷が何本もある。皿の縁と、洗濯の湯と、それから鉛筆の芯で。12年ぶんの傷だ。書き写すという作業が、手に何を残すのかを、わたくしは自分の手でしか知らなかった。
「ティルダ」
「お止めになっても出ます。今度は、お許しを得ずに出ます」
殿下が横で小さく口笛を吹いた。先生が「医学的に」と言いかけて、やめた。
ティルダはそこで、前掛けの下から包みを出した。
布に包まれた、四角いもの。
卓の上に置いて、結び目を解く。
出てきたのは焦げ茶の帳面だった。
角に布が当ててある。表紙はもう色が変わっていて、背の糸がほつれかけている。夏に贈ったときは新しかった。
「これは」
「お開けください」
わたくしは表紙をめくった。
一行目に、見覚えのある字があった。
大きくて、線が波打っていて、送り仮名の余った字だ。
『おかあさまがわらいました』
頁を持つ指に、力が入りすぎている。
「……1冊目です」
「写しでございます」
ティルダは両手を前で組んだ。
「字を、お嬢様の帳面で覚えました。屋敷に来たとき、わたしは自分の名前しか書けませんでしたので」
教本ではなく、5つのわたくしの字で。
線が曲がって、送り仮名の余った字で。
「1冊目は字が大きくて、いちばん写しやすうございました。夜、お嬢様がお休みになってから、1頁ずつ」
夜、蝋燭が減るのが早いと厨房で言われていた侍女がいた。その話なら、階下で聞いている。
「はじめの3年ほどで写し終えました。そのあとは、間違えていないか確かめるために、また写しました」
わたくしは頁をめくった。
5つの記録がある。父の眉。母の口元。家庭教師のため息の回数。焼けたはずのものが全部そこにあった。
「写した紙は、束にして箱に入れておりました。ばらばらでは読みにくうございますので、いただいた帳面に綴じ直しました」
「あの誕生日の」
「はい。ちょうどよい厚さでございました」
「なぜ、あの日おっしゃらなかったのですか」
「申し上げるつもりでおりました」
ティルダは目を伏せた。
「あの2日あとに、1冊目が焼けました。そのあとで差し出せば、慰めのように見えます。わたしは、慰めるために写したのではございませんので」
「では、何のために」
「字を覚えるためです。……はじめは、本当にそれだけでございました」
殿下が椅子から立ち上がって、卓の上を覗き込んだ。それから、片手で口を覆った。
わたくしは頁を繰り続けた。
紙の質は揃っていない。厚いところと薄いところがある。買い足した時期が違うのだろう。
インクの色も途中で変わる。3枚目までは薄く、そこから濃くなり、また薄くなる。夜の蝋燭の下で、少しずつ書き足された跡だ。
母が微笑む顔の記述は23枚目にあった。5つのわたくしが書いた文は短い。
『おかあさまはわらうとき、ひだりのほうが少し高い』
胸が張った。
息を吸うと、いつもより肺の上のほうまで入る。背筋がひとりでに伸びて、顎が上がった。目の奥が熱いのに水は出ない。
これは知らない感覚だ。
「殿下」
「言わなくていい」
殿下は卓に手をついたまま、ティルダのほうを見ていた。
「君、さっきからその人しか目に入ってないでしょ」
「ほかは入っておりません」
「じゃあ、外だ」
内と外。分類の話をされている。わたくしの帳面にも、それに似た項がある。
「朝の賞状は内。あれで出なかったのは、褒められたのが君自身だったから」
殿下はそこで、卓から手を離した。
「ほこらしい、っていうんだよ。自分のことじゃなくて、誰かのことで胸が張るやつ」
わたくしは鉛筆を出した。
紐から抜くときに指が引っかかって、芯の先が折れる。削り直してから書いた。
『ほこらしい——習得』
書いてから顔を上げて、ティルダを見た。
これまでこの人に何かを言うとき、わたくしは座っていた。座って、盆を持って立っている人を見上げていた。
今日は立っている。目の高さが同じだ。
「ティルダ」
「はい」
「ありがとう」
彼女の肩が跳ねた。跳ねて、それから下がって、そのあとの顔はよく見えなかった。前掛けで隠れていたからだ。
「……お嬢様」
「はい」
「12年かかりましたね」
わたくしは焦げ茶の帳面を持って、机まで運んだ。
11冊が積んである。いちばん上ではなく、いちばん下に置いた。順番を繰り上げなかったので、1冊目の場所は空けたままにしてある。
そこに収まった。
机の上の帳面は今日から12冊になった。




