第24話 許せない、という名前の熱
帳簿は菓子の箱に入って届いた。
蓋を開けると、上に本物の焼き菓子が2段。その下に油紙が敷いてあって、さらに下に、黒い表紙の綴りが入っていた。
添えられていた紙は1行だけだった。
『条件は取り下げますわ。貸しにしておきます。どうやって手に入れたかは、お聞きにならないで』
「なんで送ってきたの、あの子」
殿下が箱を覗き込みながら言う。
「条件を呑まなかったのに」
「憐れまれたままでいるのが、我慢ならないのだと思います」
「え?」
「あの方は、憐れむ側にいる人には憐れまれたくないのです。わたくしは先日、あの方を憐れみました。……おそらく、それを帳消しにしたいのです」
「そんな理由で?」
「そんな理由でしか動かない方です」
わたくしは油紙を外して、綴りを卓に置いた。
表紙に文字はない。留め紐は擦り切れていて、何度も解かれた跡がある。
開いた。
一行目は12年前の春だった。
『バルテルミー殿 30枚』
次の行は同じ年の夏。同じ額。秋。冬。
年に4回。額は最後まで変わらない。
紙が変わっても字は同じだった。角の丸い、読みやすい字だ。夏に届いた見舞いの手紙と、まったく同じ書き手のものだった。
『気にすることはない。つらくなったら、いつでもわたしの家へ来なさい』
同じ手がこの行を書いている。
わたくしは頁を繰った。
11年目。10年目。9年目。額は変わらない。年に4回、春夏秋冬。誕生日でも祝日でもない、季節の変わり目に几帳面に。
途中で一度だけ、額の隣に短い書き込みがあった。
『先方、増額の申し出あり。断る。当初の額を守ること』
断っている。
払い続けた男が値上げを断って、それでも払い続けている。金が惜しかったわけではないだろう。額を動かせば、記録の形が崩れるからだ。
わたくしと同じだ。
最後の頁は3年前の冬だった。
『バルテルミー殿 30枚』
その2行下に、別の記載がある。
インクの色が濃い。書いた日に、筆をよほど強く押したのだろう。
『記録処分。手数料 50枚』
頁を押さえた手に、爪の跡が残った。
「殿下」
「うん」
「ここです」
殿下とヴァンサン先生が同時に覗き込んだ。先生は綴りの上に手をかざして、そのまま近づけられずにいる。
「……処分させたのは」
「叔父です」
医学院の処分簿の、あの空欄が埋まった。
書かなければ残らない。残らなければなかったことになる。同じことを考える人間が、あの日わたくしと同じ考え方をしていた。
そこまで理解して、体が変わった。
手が震えはじめた。
紙を持っていられなくなって、綴りを卓に置く。置いてからも震えが止まらない。歯が鳴った。奥歯が勝手に噛み合って、そのたびに音が出る。
耳鳴りがする。視界の端が狭くなって、真ん中の一点だけが明るい。息が速い。吸っているのに足りない。
胸の内側が熱い。あの日の炉の前より熱い。
わたくしは自分の指を見下ろした。
「殿下」
「うん」
「体が」
「うん」
「震えております。息が速く、耳が鳴ります。胸が熱くて、歯が合いません」
殿下は答えなかった。
すぐには答えず、わたくしの顔をじっと見ていた。彼の目のあたりが赤い。
「リディア嬢」
「はい」
「今の、誰のために出た?」
わたくしは考えた。
考えて、答えが出なかった。
ティルダのためではない。あの人は今、部屋の隅で立っている。母のためでもない。母は階下にいる。殿下のためでもなければ、先生のためでもない。
この綴りに書いてあるのは、季節ごとの金額の列だ。
その金で買われたのは、わたくしの12年だ。
父が部屋を出ていった日。母が微笑むのをやめた晩。悪魔と呼ばれた回数。人形と呼ばれた回数。誰も再診に呼ばなかった年月。
全部、この額のためにあった。
「……分かりません」
「うん」
「誰のためでもありません」
言った瞬間に、震えが一段強くなった。
殿下が息を吐いた。長い息だった。
「それは、ゆるせないっていうんだよ。自分がやられたことに対して出るやつ」
彼の指も震えていた。卓の縁を掴んでいるのに、指の先だけが小刻みに動いている。
「君、いま」
「はい」
「自分のために出たね。……やっとだ」
部屋の誰も動かなかった。
ティルダが壁のところで両手を口に当てている。先生は綴りを閉じて、その上に手を置いたまま、俯いていた。
わたくしは震える手で鉛筆を取った。
『ゆるせない——習得』
字が歪んだ。歪んだままにしておく。
「殿下」
「うん」
「叔父を、落とします」
殿下が顔を上げた。
卓の縁を掴んでいた手が、そこから離れる。
「場所は、モルガン侯爵邸の広間にいたします。あの絵の下です」
「なんで」
「あの夜あの広間にいた方々に、もう一度そろっていただきます」
「口実は」
「侯爵は年に一度、冬の終わりに集まりを開かれます。今年もお開きになります。わたくしが行くと言えば、断られません」
「みんな来るの?」
「泣くところが見られるからです」
殿下が卓に突っ伏した。
腕の下から、笑っている息が漏れてくる。
「もう1つ、要ります」
「なに」
「父です。オルコット公爵家として弟を切らなければ、これは姪の告発というだけのものになります」
「話せる?」
「話します」
殿下は卓の縁に指を置いた。
1、2、3。
「じゃあ、ぼくは王家の側を止める。継承権は捨てたけど、名前はまだ使える」
「よろしいのですか」
「もう隠すこと、ないから」
その日の夕方、わたくしは父の書斎の扉を叩いた。
前に入ったのは夏の初めだ。季節が3つ変わったにすぎないのに、部屋の空気は前と違って感じられた。
「用件を」
「叔父の帳簿が手に入りました」
羽根ペンが止まった。今度は机に置かれた。
わたくしは綴りを差し出して、最後の頁を開いた。父は座ったまま、指も動かさずにそれを読んだ。読み終えるまでにずいぶんかかった。
「……いつからだ」
「わたくしが5つの年からです。年に4回、途切れずに」
父は目を閉じた。
「お父様」
「なんだ」
「冬の終わりの集まりで、これを開きます。オルコット公爵家として、弟君を切っていただきたく存じます」
「私が切れば、この家の12年も一緒に裁かれる」
「はい」
「お前は、それを承知で言っているのか」
「承知しております」
わたくしは机の上で両手を組んだ。組まないと震えが見えるからだ。
「お父様が確かめなかったことも、母が微笑まなくなったことも、全部あの場に出ます。それでも出します」
父は長いこと黙っていた。
窓の外はもう暗い。燭台の火が書簡の山に長い影を落としている。
「あの日」
父が口を開いた。書簡の山を押しやって、机の上に空きを作る。
空いたところには、何も置かれなかった。
「診断の日に、私は部屋を出た」
「はい」
「なぜだと思う」
「存じません」
「……お前に見せられる顔ではなかった」
わたくしはその一行を書き留めなかった。
書けば残る。残せば、いつか言い訳として読めてしまう。言い訳は、されなかった。されなかったものを、こちらが記録して残す必要はない。
「12年、遅うございました」
「そうだ」
父は羽根ペンを取って、新しい紙を引き寄せた。
「侯爵に文を出す。当日、私も出る」
その夜、わたくしは机の前に座った。
12冊が積んである。いちばん下に焦げ茶の1冊目。
わたくしは感情の名前を書きはじめた最初の頁を開いた。
中庭の噴水の縁で、震える手で書いた行だ。字が歪んでいるのは今日と同じで、書いたときの理由だけが違う。
『ただし、わたくし自身のことでは出ない。ティルダのことでは出た』
鉛筆を当てて、その行の上に、まっすぐ線を引いた。
書き間違いを直したことは二度ある。どちらも名前の思い違いだった。
あの一行に線を引くのは初めてだった。




