第25話 12冊、開かせていただきます
わたくしはあの夜と同じ場所に立っている。
殿下はいない。
今夜は王城にいる。王家の側を抑えるためだ。継承権を捨てた王子が公爵家の相続の場に立てば、それだけで話の筋が変わる。だから彼は来ない。
「ぼくが行かないほうが、君の話になる」
昨日そう言ったとき、彼は少しも笑わなかった。
「わたくし一人で立ちます」
「そう思ってるの、君だけだよ」
そのとおりだった。
壁の絵も同じだ。矢の刺さる寸前の鹿。逃げる背に牙をかける猟犬。その真下に立っているのも、あの夜と変わらない。
違うのは頭から葡萄酒をかぶっていないことと、腕に帳面を抱えていることだけだ。
広間は人でいっぱいだった。
冬の終わりの集まりに、モルガン侯爵はほとんどの家を呼ぶ。あの夜にいた人たちは、たいていここにいる。
「リディア」
やわらかい声が人垣の向こうから届いた。
叔父が歩いてくる。今日も背が高く、肩が広く、語尾が少し上がる。
「顔色が悪い。無理をしているのではないかい」
「体は、いつもどおりでございます」
「その荷物は」
「帳面でございます」
叔父が微笑む。目尻の皺が先にでき、眉はそのあとで下りた。
順番が逆だ。ティルダのときは、眉のほうが先に動く。
「かわいそうに。まだ、それを離せないのだね」
わたくしは絵の下の卓に12冊を置いた。
積むと顎の下まで届く。
「オルコット様」
侯爵が椅子から立ち上がった。
「今宵は集まりの席だ。書き物を持ち込む場ではない」
「侯爵閣下」
わたくしは向き直った。
「12冊、開かせていただきます」
広間の音が消えた。
あの夜、この場所で音が消えたときは、みなさま何かを待っている顔をしていた。今日も同じ顔だ。待っているものだけが少し違う。
あのときはわたくしが泣くところを待っていた。今日はわたくしが何を出すのかを待っている。
同じ人たちが同じ位置に立っている。給仕まで同じ人だ。あの夜、盆を持ったまま固まっていたその人が、今日は卓の脇で背筋を伸ばしていた。
わたくしは1冊目を開いた。
焦げ茶の表紙。線の曲がった、大きな字。
「5つの年の記録です。『おかあさまが、わらいました』」
誰かが息を吸った。
「これは、わたくしが焼かれた1冊の写しです。写したのは、わたくしの侍女でございます」
ティルダが人垣の前に出て、礼をした。
その角度は完璧だった。母の礼と同じくらい正確で、今日は少しも遠くない。
「わたしが写しました。字を覚えるためでございます。写し終えたのは、9年前でございます」
「侍女の言葉など」
「日付を申し上げましょうか」
ティルダの声は震えていない。
「1冊目の何頁に何が書いてあるか、わたしは全部言えます。焼ける前の帳面をご覧になった方がこの場におられるなら、照らし合わせてくださいませ」
ベルナール伯が卓の縁を掴んだ。
わたくしは頁を繰った。
「7つの年。『とうさまは、わたしを見ないとき、まばたきが早い』」
頁を繰る音だけが広間に響いている。誰も止めなかった。
「13になった冬。『ティルダが泣いた。犬が死んだため』。……そう書いて、その下に付け足しております。『わたくしは泣く理由が分からないと言った。何も出なかった。出なかったことを書いておく』」
「14の春、夜会。『杯の割れる音で、肩が動いた』。その先は空欄でございます」
わたくしは顔を上げた。
「みなさまは、この帳面を、心のない娘の証拠だとおっしゃいました」
誰も答えない。
「そのとおりです。書いてあるのは他人の顔の型ばかりで、わたくし自身の感情の名前は、12冊のどこにも書いてありません」
叔父の微笑みがそこで少しだけ止まった。
「ですが、書いてあります」
「何が」
「肩が動いた。胸が重い。指が冷たい。眠れない。……名前のないまま、体だけが年ごとに記録されております」
わたくしは1冊を高く持ち上げた。
背表紙の糸が切れかけている。11年、毎晩めくった側だけがそうなる。
「わたくしは、反応しておりました。名前を知らなかったのです」
ヴァンサン先生が人垣を割って前に出た。
上着の袖に、まだ薬のにおいが残っている。
「王都の南で開業しております、ヴァンサンと申します。所見を申し上げます」
彼は懐から書面を出した。留め金の壊れた鞄は、今日は持っていない。
「オルコット公爵令嬢の身体に、器質的な異常はありません。表情筋も涙腺も正常です。反応が他人より遅くて薄い。それだけのことです」
「では、あの診断は」
「『心の臓の欠け』という病名は、医学に存在しません」
広間がざわついた。
侯爵の後ろで、扇が3つ同時に開く。
「僕は医学院に5年おりました。教科書にも症例集にもない語です。他の医師が聞いて同じものを思い描けない名は、病名ではありません」
「では、なぜそんな名がつけられたのです」
「金を受け取ったからです」
ヴァンサン先生の声が、そこで一度だけ揺れた。
「その医師の名は、バルテルミー。……僕の、師の師にあたる人です」
叔父の指が上着の裾を握った。
わたくしは卓の下から黒い綴りを出した。
「こちらは、その医師に払われた金の記録でございます」
「リディア」
叔父の声から、語尾の上がりが消えた。
「年に4回。春夏秋冬。額は最後まで動いておりません。宛先はバルテルミー。書いた方の字は——叔父様、夏にわたくしへ見舞いの文をくださいましたね」
「……何の話だ」
「同じ字でございます。角が丸くて、読みやすい字です」
わたくしは最後の頁を開いた。
「最後の記載は3年前の冬。『記録処分。手数料 50枚』」
ヴァンサン先生が続けた。
読み上げる声だけが、地下の記録庫にいたときと同じ速さに戻っている。
「医学院の処分簿には、その年の2月に令嬢の記録が処分された記載があります。申し出人の欄だけが空欄でした。制度上、あり得ません」
叔父は答えなかった。
答えずにまだ微笑んでいた。
「兄上」
彼は父のほうを見た。
「これは何かの間違いです。わたしは、この子を案じてまいりました。それだけで——」
「ベルトラン」
父が前に出た。
広間の全員が下がる。オルコット公爵が声を出すのを、ここにいる人たちはめったに聞かない。
「その綴りの字は、お前のものだ。私は40年、お前の字を見てきた」
「兄上」
「私は確かめなかった。それも今日ここで裁かれる。承知の上で言う」
父は叔父の前に立った。
「オルコット公爵家は、お前を切る」
そのとき、侯爵が椅子から立ち上がった。
「私は関係ない。ダルクール家が勝手にしたことだ。あの娘が帳簿を持ち出したのだろう」
人垣の隅で、ヴィオレット嬢の顔から色が引いた。
「閣下」
「知らぬ。私はあの家に情けをかけたまでだ」
「……そう」
彼女は扇を畳んだ。
それから、思いのほかはっきりした声で言った。
「わたくし、証言いたしますわ」
侯爵が振り返る。
「閣下の書き物机の話も、オルコット様の噂を流せとお命じになったことも、全部申し上げます。城の中庭の白い薔薇——あれは我が家が寄贈したことになっておりますけれど、お金を出したのは閣下ですわね」
「黙れ」
「黙りませんの。もう、憐れんでもらう必要がございませんから」
騒ぎの中で、アルヴィン様が誰にともなく繰り返しているのが聞こえた。
「私は知らなかった。私は何も知らなかった」
彼は父親の袖を引き、侯爵に呼びかけた。
どちらにも振り払われて、最後にはわたくしのところまで来る。
「オルコット嬢。……リディア。私は、君を信じていた」
「信じておられません」
「なぜそう言える」
「信じている方は、証拠として帳面を持参せよとおっしゃいません」
彼の口が半分開いたまま止まった。あの夜、葡萄酒の杯を落としたあとのヴィオレット嬢と同じ形だ。あの夜の型が9か月かけて別の顔へ移っている。
誰も彼のほうを見なかった。
叔父が連れていかれるとき、彼は一度だけこちらを向いた。
顔は最後まで崩れなかった。皺の位置も口の端の高さも、玄関で迎えられた日のままだ。
「かわいそうに」
わたくしは何も言わなかった。
言い返す言葉なら並べられる。年に4回の額も処分簿の空欄も、頭の中に順番どおり入っている。
並べなかった。
言葉を返す必要のない相手がいることを、この9か月で覚えた。覚えたのはたぶん今日だ。
人が引きはじめた広間で、父がわたくしのほうへ歩いてきた。
止まって、しばらく何も言わず、それから口を開く。
「リディア」
広間の隅まで届く声だった。
この人の声は、いつも書簡の上に落ちるだけの大きさだったのに。




