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令嬢はこの気持ちの名前を知らない 〜「心がない」と婚約破棄された悪役令嬢に、殿下が感情をひとつずつ教えてくれます〜  作者: 夜凪 蒼


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第26話 母の口の端が、ほんの少し

断罪の翌日から、屋敷には人が来続けた。


王家の使い。医学院の書記。ベルナール伯爵家からの詫び状を持った従僕。ダルクール家からは何も来なかった。


叔父の屋敷は差し押さえになった。従妹は母方の家へ移されたと聞いた。


その子の顔を、わたくしは知らない。知らないまま、書き留める頁を1つ作った。


顔の欄が空いたままの頁は、書いていて落ち着かない。


「お嬢様。お休みになってください」


「書くことが多いのです」


「3晩続けて、朝まで火が入っております」


母が部屋に入ってきたのは、その3日目の午後だった。


扉を叩く音がして、返事をすると、絹の擦れる音が近づいてくる。踵を先に置く歩き方だ。廊下で聞き分けられるのに、この部屋で聞くのは久しぶりだった。


「入ってもよろしいかしら」


「どうぞ」


母は敷居のところで一度止まって、それから中へ入った。


部屋を見回している。本のない棚。花瓶のない卓。机の上に積んだ12冊の帳面。


「……物が、ないのね」


「必要な物はございます」


「そう」


椅子を勧めると母は座った。背筋の伸び方も指を重ねる高さも、いつもどおり正確だ。そこだけが変わっていない。


長い沈黙があった。


ティルダが茶を置いて、下がろうとして、母に止められた。


「あなたも、いてちょうだい」


「奥様」


「あなたが聞いていないと、この子はあとで確かめる相手がいないでしょう」


ティルダが壁際に戻った。


母は茶碗に手を伸ばして、持ち上げずに指だけ添えた。


「あの診断の日のことを、話します」


「はい」


「わたくしは、疑ったことがあるの」


窓の外で、溶けかけた雪が屋根から落ちた。


「あなたが7つのころだったかしら。庭で転んだあなたを見ていたら、膝から血が出ているのに、あなたの眉が動いたのが分かったの。ほんの少しだけ」


「記憶にございません」


「あなたは覚えていないでしょうね。あなたにも見えないくらいの動きだったから」


母は指を茶碗から離した。


「別の医師に診せようと思いました。夫に言いました。あの人は、必要ないと」


「はい」


「弟君——ベルトランにも相談しました。あの方は、こう言ったの。『治療は姪を苦しめるだけです。義姉上がご自分を責めることになる』」


母の指が膝の上で重なった。


重ねた高さが、いつもの礼のときとちょうど同じだ。


「わたくしは、確かめるのをやめました」


「なぜですか」


「確かめて、治らないと分かるのが怖かったから」


彼女はそこまで、茶碗のあたりに目を落として話していた。


顔を上げて、わたくしをまっすぐ見る。


「見なければ、壊れずに済むと思ったのです。……壊れずに済んだのは、わたくしだけでした」


口を開かなかった。


言うべきことが分からなかったからではない。並べられる事実が多すぎて、どれから出せばいいのか決められなかった。


「リディア」


「はい」


「あなたが5つの年から、わたくしはあなたの前で笑っておりません」


「12年と、7か月ほどでございます」


母の唇がそこで少し歪んだ。


「……そうね。あなたは記録する子でした」


「はい」


「ごめんなさい」


短い言葉だった。


母の声は震えなかった。ヴィオレット嬢の震え方とも、ティルダの震え方とも違う。この人は震えるところまで行かない。行かないように、12年かけて自分を作ってきたのだろう。


飾りもなく、言い訳もなく、続きもない。12年ぶりの謝罪が、6文字で済んだ。


「許してくれとは言いません」


「はい」


「言えないの。言えば、あなたにもう一度何かをさせることになるから」


わたくしは体の状態を確かめた。


奥歯に力が入らない。鼻の奥も痛まない。まばたきが、いつもの間で戻ってくる。


かわりに、肩のあたりが下がっていく。息が長くなる。喉の奥でずっと固まっていた何かが、ゆっくりほどけていくのが分かった。


軽い。


くやしいのときとも、ゆるせないのときとも違う。あれは熱かった。これは温度がない。


そこで体が動いた。


いつもと順番が同じだ。決めるより先に腕のほうが行く。中庭で扇を掴んだときも、樅の木から落ちる人の裾を引いたときもこうだった。


気づいたときには、母のほうへ手が伸びていた。


伸ばそうと決めた覚えはない。気づいたときには、膝の上で重なっている母の指に触れていた。


母の手は冷たかった。


「……あら」


母が自分の手を見た。それから、わたくしの手を見た。


その口の端がほんの少しだけ動いた。


上がったのは左のほうが高い。1冊目の23枚目に書いてある通りだった。


笑顔にはならなかった。途中で止まって、そのまま元に戻る。それでも動いた。


母は膝の上の指をほどいた。


ほどいて、また元の高さで重ね直す。


その日の夕方、殿下が窓から入ってきた。


わたくしは昼のことを順に報告した。母が来たこと。謝ったこと。口の端が動いたこと。それから、自分の体に起きたことも。


「肩が下りました。息が長くなって、喉の奥に固まっていたものがほどけました。熱はありません」


「痛くない?」


「痛みません。くやしいのときとも、ゆるせないのときとも違います。あれは熱うございました。これは、温度がありません」


殿下は桟に片手をついたまま、少し笑った。


「それ、ゆるすっていうんだよ」


「ゆるす」


「相手を下ろすんじゃなくて、自分が抱えてたものを下ろすやつ」


わたくしは帳面を引き寄せた。


『ゆるす——習得』


書いてから、その下を1行あけた。何か書き足せそうな気がしたのに言葉が出てこない。空けたままにしておく。


「お母様は、そのあと何もおっしゃいませんでした」


「うん」


「わたくしも、何も言えませんでした」


「それでいいよ。……たぶん、そこからが長いんだ」


母がふたたび部屋へ来たのはその翌日だった。


扉を叩く音が、昨日より1つ多い。入ってきた母は、勧める前に椅子へ座った。


「……お茶を、淹れましょうか」


「お淹れになれますか」


「いいえ」


「では、ティルダに」


「そうね」


ティルダが茶を淹れているあいだ、母は椅子に座ったまま、手の置き場所を探していた。膝の上に置いて、肘掛けに移して、また膝に戻す。


12年ぶりに娘の部屋にいる人の手には、置き場所がないらしい。


「リディア」


「はい」


「あなたは、これから何をなさるの」


「分かりません」


「そう」


「叔父の件が終わりましたので、次の頁が空いております。空いた頁の埋め方を、わたくしはまだ知りません」


母は茶碗を持ち上げて、口をつけずに戻した。


「わたくしも、知らないの」


「はい」


「12年、あなたを見ないことで日を過ごしました。見るようになったあと、何をすればよいのかが、いまだに掴めないのです」


「では、二人とも分かっておりません」


母の指がそこで少し動いた。


笑わなかった。笑わなかったけれど、部屋の空気が一段だけ緩んだのが分かる。


「……ティルダ」


「はい、奥様」


「この子は、いつもこういう話し方をするの?」


「いつもでございます」


「そう」


母はそのまましばらく茶碗を眺めていた。


日が傾くころ、王城から使者が来た。


殿下に、北の離宮への滞在を命じるという文だった。


「期限は」


「書いてない」


殿下は文を折り目のところで開き直し、もう一度読んで机に置いた。


「継承権を捨てた王子が公爵家の相続に首を突っ込んで、社交界を引っくり返した。父上としては、体面上どこかへやるしかない」


「いつ発たれますか」


「5日後」


わたくしは日付を書き留めた。書き留める手が少し遅い。


「戻ってこられますか」


「分からない」


机の上の帳面に、彼の視線が一度落ちた。落ちて、すぐ外れる。


こちらが黙っていると、彼のほうが続けた。


「ほんとに分からない。嘘つきたくないから、そう言う」


庭の隅に、雪の残りが寄せてあった。庭師が集めたものだ。春までにはなくなる。


「殿下。わたくしは、何をすればよろしいですか」


聞いてから、この問いを口にするのが久しぶりだと気づいた。この9か月、指示を求めたことがほとんどない。


殿下は少し笑った。


「聞かないでよ、それ」


「なぜですか」


「もう、ぼくが答える番じゃないから」


「では、誰の番ですか」


「君の番」


彼は文を封筒に戻した。


折り目のところが白くなっている。何度も開いたらしい。


「1つだけ、お伺いしてもよろしいですか」


「うん」


「殿下は、感情を1つだけ教えないとおっしゃいました」


彼の手が上着の内側に入ったまま、出てこなくなった。


「まだ、伺えませんか」


「教えない」


「なぜですか」


「教えたら、君のものにならないから」


意味は取れなかった。そのまま書き留める。あとで読み返せば分かることもある。9か月で、それは学んだ。


殿下は帰り支度をして、扉のところで振り返った。


いつもなら、ここで机の前を通る。通るときに指が縁を叩く。1、2、3。


今日は机の前を通って、そのまま歩いた。


指は触れなかった。


わたくしに隠しておくことが、もう一つも残っていないからだ。

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