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令嬢はこの気持ちの名前を知らない 〜「心がない」と婚約破棄された悪役令嬢に、殿下が感情をひとつずつ教えてくれます〜  作者: 夜凪 蒼


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第27話 これは病ではありません、と医師は言う

字が書けない。


殿下が発って3日になる。帳面の3日ぶんの頁が、日付だけ書かれて白いまま並んでいた。


書くことはある。母がまた部屋へ来たこと。ヴィオレット嬢がダルクール男爵家ごと王都を離れたこと。ティルダが南の商会と話をつけてきたこと。


叔父の裁きの日取りが決まったこと。ヴァンサン先生が医学院に呼び戻され、診断名の扱いについて意見を求められたこと。父が母と同じ卓で朝食を取るようになったこと。


どれも大事だ。書かなければ忘れる。この12年、書かなかった日はない。


鉛筆を持って、紙に当てて、そこで止まる。


芯は紙に触れている。触れているのに線にならない。手首から先がこちらの言うことを聞かなかった。


「お嬢様」


「はい」


「今朝から、その姿勢のままでいらっしゃいます」


「書いております」


「紙が、白いままでございます」


ティルダが茶碗を置いた。湯気が真っ直ぐ上がって、途中で崩れる。


わたくしは体の状態を順に確かめた。


胸が重い。息が浅くて、深く吸おうとすると途中で引っかかる。食事は半分しか入らない。眠りは浅く、朝までに3度目が覚める。


重いのは胸の上のほうだ。鎖骨の下あたりに、掌ほどの大きさで石を置かれているような感じがある。


手で押してみると、押した場所は柔らかい。石はない。


『所見なし』と書きたいのに、その4文字が書けない。書けないという症状のほうがおそらく重い。


心臓は速くない。熱もない。痛むところは1つもない。


帳面を12冊とも開いて、症状の似た記述を探した。似たものはあっても、同じものは1つもなかった。


「ヴァンサン先生を呼んでください」


「先ほど、使いを出しました」


「わたくしが申し上げる前にですか」


「昨日のうちに出しております」


ティルダは湯気の消えた茶碗を下げて、新しいものを置いた。


「お嬢様が字をお書きにならない日は、今日で3日目でございます」


「数えておられたのですか」


「数えます。お嬢様に習いました」


先生は昼過ぎに来た。


留め金の壊れた鞄を膝に載せて、いつもの早口で診察をはじめる。


脈と瞳孔。腱反射。皮膚と喉。最後に腹を押して、先生は鞄の蓋を閉めた。


「異常はありません」


「食事が入りません」


「食欲の低下は認めます。もっとも、消化器に触ってみて異常はありません」


「眠れません」


「睡眠の質の低下も認めます。原因になる所見はありません」


「胸が重うございます」


「肺も心臓も正常です。呼吸音も雑音なし」


先生は膝の鞄を撫でた。


壊れた留め金のあたりを、指が探している。


「1つ伺います。いつからですか」


「3日前の朝でございます。殿下が発たれた日です」


先生の指が留め金から離れた。それから、蓋をもう一度確かめるように押さえる。


「……なるほど」


「何かお分かりですか」


「医学的には、何も」


彼はそこで、診察の姿勢を崩した。


背もたれに体を預けて、こちらを患者としてでなく見る。


「これは病ではありません」


わたくしは頁に目を落とした。


『症状。胸部の重さ。呼吸の浅さ。食欲低下。入眠困難。筆記不能。所見なし』


そこまでは書けた。日付も書けている。


「では、何ですか」


先生は答えなかった。


鞄を膝から下ろして、卓に置いて、それから両手を膝に戻す。医師の手つきではない座り方だ。


「先生。答えられないのですか」


「僕の領分ではありません」


先生が卓の上の鞄を、少しだけ自分のほうへ寄せた。


「医者にも、書ける診断書と書けない診断書があります。医学が答えるのは、体のどこに何があるかまでです。……あなたの体には、何もありません」


「何もないものが、なぜ字を書かせないのですか」


先生の眉が下がった。


目尻に皺が寄る。ここまではあの二人と同じ型だ。けれど口の端が動いていない。控えの間で分けた2つのうち、こちらは胸が痛むほうだ。


「……失礼します」


彼は鞄を持って立ち上がり、扉の手前で振り返った。


「オルコット嬢」


「はい」


「僕は、師が病名を作った理由をずっと考えていました」


「はい」


「名前があると、人は安心するからです。分からないものに名前がつくと、扱えるようになる。……逆に言えば、名前のないものは、扱えないまま抱えるしかない」


「では、わたくしは」


「抱えてください。医者としては、そう申し上げるほかありません」


彼はそれ以上何も言わずに帰った。


その日の夕方、ティルダに聞いた。


「これは何という感情ですか」


彼女は畳んでいた布を落とした。落として、拾って、また畳みはじめる。


「ティルダ」


「……はい」


「答えていただけますか」


「わたしは、申し上げられません」


「知らないのですか」


「知っております」


「では、なぜ」


彼女は布を胸に抱えた。


抱えたまま、こちらへ向き直る。


「お嬢様。わたしは12年、お嬢様の代わりに泣いてまいりました。もういたしません。……これも、同じでございます」


「代わりに泣くことと、名前を言うことは違います」


「同じでございます」


彼女は布を畳み直した。角を揃える手つきがいつもより丁寧だ。


「わたしが名前を言えば、お嬢様の代わりに言ったことになります」


布の角が揃って、膝の上に四角い塊ができている。


その塊を、彼女は両手で押さえていた。


「お嬢様がご自分でお付けにならないと、その名前は借り物になります。借り物は、いつか返さなければなりません」


彼女は礼をして下がった。


夜になって、父の書斎へ行った。


父は書簡から目を上げて、わたくしの顔を見て、それから羽根ペンを置いた。置き方が最近少し変わった。以前より早く置く。


「用件を」


「胸が重うございます。息が浅く、字が書けません。医師は病ではないと申しました」


父は羽根ペンの軸を、指で二度ほど回した。


「……北の離宮までは、馬車で12日だ」


「はい。調べました」


「そうか」


父はそこで口を閉じた。北までの日数のほかに、渡されたものは何もない。


書斎を出るとき、扉のところで呼び止められた。


「リディア」


「はい」


「お前は、私に似ている」


「どこがですか」


「言うべきことを、決めてからでないと言えないところだ」


父は書簡に目を戻した。


紙の同じ行に、指が二度戻った。読んでいないのが分かる。


「私は12年、決めきれなかった。……お前は、そうならなくていい」


翌朝、母にも聞いた。


母は刺繍の枠を持ったまま、針を布から抜かなかった。


「あなた、それをお父様にもお聞きになったのね」


「はい」


「あの人は何と」


「離宮までの日数をおっしゃいました」


母の唇の左側がわずかに持ち上がった。


「不器用な人ですこと」


「お母様は、ご存じですか」


「知っております」


「では」


「言いません」


母は針を刺繍に戻した。


糸の色を替えるつもりらしく、脇の籠に手を伸ばす。


「わたくしは、あなたに何かを教えるということをしてきませんでした。今さら1つだけ教えるのは、都合がよすぎます」


「お母様」


「なんですの」


「では、いつになれば分かりますか」


母は針を布に刺したまま、しばらくそこを見ていた。


「分かるのではなくて、決めるのだと思いますわ」


決めるという工程なら、冬のはじめに一度だけ頁の隅へ書いた。


まだ埋めていない項だ。


「名前は、当てるものではないでしょう。……わたくしにも、そこまでしか申し上げられません」


理屈は通っている。通っているのに、こちらの胸は軽くならない。


その日、わたくしは屋敷の中で5人に同じ質問をした。


料理番。古参の女中。玄関番。庭師。それから厨房の下働きの子。


5人とも同じ顔をした。


眉が下がって、目が逸れて、口の端が少しだけ上がる。悲しむ型でも困る型でもない。分類にない顔だ。


答えられないのではない。


答えないのだと分かった。


分かってしまえば、あとはもう聞くだけ無駄だ。


わたくしは机に戻って、白いままの頁に、その顔を5人ぶん書き足した。


書けた。


症状は書けないのに他人の顔は書ける。12年やってきた手つきは、こういうときにも動く。


書き終えて、その5つの型を眺めた。


5つとも、線一本ずれていない。


分類にない顔だと思ったが、1つだけ似ているものがあった。城の中庭の噴水で見た、殿下の横顔だ。


わたくしは5つの型の下に、それを6つ目として並べた。

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