第28話 最後の一つだけ、どこにも書いていない
12冊を頭から読み返すのに6日かかった。
1日に2冊。朝から夜まで、頁を繰って、指で行を追う。ティルダが食事を運んできて、下げて、また運んでくる。
5つの年から17の年まで。数えてみると、頁の数は1400を超えていた。
書いてあるのは顔の型ばかりだ。眉の角度。口の端。瞬きの回数。声の高さ。手の置き場所。それがどの場面で出てきたか。
その中に、感情の名前が20ある。
怒り。驚き。おかしい。恥ずかしい。こわい。うれしい。くやしい。きらい。嫉妬。さみしい。悲しい。ありがたい。うしろめたい。うたがい。ほっとする。あきれる。かわいそう。ほこらしい。ゆるせない。ゆるす。
9か月で20だ。それまでの12年は、ひとつも書けなかった。
書けなかったのではない。名前を知らなかったので、書きようがなかった。
体のほうはずっと同じことをしていたはずだ。肩が動く。指が冷える。眠れなくなり、胸が重くなる。12年ぶんのその記録は、名前のない列としてこの12冊に残っている。
読み返しながら、その列に後から名前を貼っていった。
『8つの年。雨。母が廊下で足を止めた。胸が重い』——これはさみしい。
11の年、家庭教師が辞めた日には手が冷たいと書いてある。こわい、と今なら貼れる。
13の年の舞踏の稽古では、奥歯を噛んでいたとある。たぶん怒りだ。
貼れる。全部ではないが半分以上は貼れた。
わたくしは12年、名前のない状態で正しく反応していたことになる。
わたくしは20の名前を紙に書き出して、机に並べた。
「お嬢様。それは何をなさっているのですか」
「照合です」
ティルダが紙の上を目で追った。左の端から右の端まで。
「今の症状に当てはまる名前を、20のうちから探します。1つずつ当てて、外れたものに印をつけます」
それから彼女は、何も言わずに椅子をもう1つ持ってきた。
「わたしがお読みします。お嬢様は当ててくださいませ」
「よろしいのですか」
「そのほうが速うございます」
そこから照合をはじめた。
「怒り」
胸が熱くなる。奥歯を噛む。視界の端が暗くなる。喉から低い声が出る。
今の胸は熱くない。奥歯にも力が入っていない。違う。
「くやしい」
取り返しがつかないものを、取り返したいときに出る。顎が震える。歯が鳴る。
顎は震えていない。違う。
「さみしい」
部屋が広く感じる。音が長く残る。胸の下のほうが重い。
これは近い。近いがあのときは座っていると沈む感じがあった。今は沈まない。上のほうが重い。胸の、鎖骨の下あたりだ。
違う。
「かわいそう」
みぞおちが重い方向へ沈む。相手の顔を見ていられるのに見ていたくない。
見ていたい。むしろ見たい。逆だ。違う。
「うしろめたい」
これは全然違う。味が消えるということが起きていない。今朝の茶の味はきちんと分かった。
「ありがたい」
「喉が詰まって声が出なくなる、でございましたね」
「声は出ます。今、出ております」
「では違います。ほっとする」
「肩が下りて、息が深く入ります。息は浅うございます。逆です」
「きらい」
「目が逸れます。逸れません」
外れた名前に、順に印をつけていく。
印が並ぶほど、紙の白いところが減っていった。
「嫉妬」
「腹の痛む場所が動きます。腹は静かです」
「あきれる」
「息がまとまって出ます。まとまりません」
ティルダの読み上げは速い。速いのに、1つずつ間を置いてくれる。当てる時間を計っているらしい。
3日かけて、20を全部当てた。
全部外れた。
「お嬢様。少しお休みになってください」
「あと1つございます」
「20を全部お当てになったと」
「新しい帳面のほうです。頭から、もう一度」
6日目の夜、最後の1冊を閉じた。
指の腹が乾いて、紙の端で切れている。何百枚も繰るとこうなるらしい。
12年、この手は書く側にしか使ってこなかった。
書くのと読むのは別の作業だ。
ティルダが盆を置いて、そのまま出ていかなかった。
「何ですか」
「……いえ」
「言いたいことがおありですね。眉の内側が上がっております」
「上がっておりません」
わたくしは25頁を開いて、その型の絵をこちらへ向けた。
彼女は前掛けで顔の下半分を隠した。
「お嬢様が、そこまでなさるとは思っておりませんでした」
「なぜですか」
「書いてあることの中に答えがないと、たいていの方はそこでやめます」
「諦められません」
「はい」
短い返事だった。疑ってもいないし、励ましてもいない。
肯定でも否定でもない、いつもの返事だった。
「書いてあるものの外に答えがある、という頁を、わたくしは作っておりません」
「では、お作りになればよろしゅうございます」
「どう作ればよいのか、分かりません」
「そこも、お書きになっていないのですね」
「はい」
ティルダは前掛けから手を下ろした。
隠れていた口元が出てくる。笑ってはいない。
「わたしは字を、お嬢様の帳面で覚えました。書いてあるものは全部覚えました。……それでも、覚えていないことのほうがずっと多うございます」
わたくしは先を待った。
「たとえば、お嬢様がなぜ雨の日に犬小屋の藁を足させるのか。帳面には『濡れると病になる』としか書いてございません」
「事実です」
「事実でございます。ですが、それだけの方は、藁を足させません」
ティルダは何も言わずに下がった。
下がる前に、机の端に紙と封筒を置いていった。
置いた理由は聞かなかった。聞かなくても分かる。
わたくしはその紙に、北の離宮へ宛てて文を書いた。
『拝啓。胸が重うございます。息が浅く、字が書けません。ヴァンサン先生は病ではないと申しました』
そこまで書いて、紙の上で鉛筆を持ち替えた。持ち替えても同じだった。
続きに何を書けばいいのか分からない。症状を並べても殿下は名前を教えないと言った。教えないと決めた人に症状だけ送るのは催促と変わらない。
紙を畳んで、封もせずに引き出しへ入れた。
出さない手紙はこれで2通目になる。1通目は屋敷の医師に宛てたもので、あれも症状の欄で止まった。
その夜、新しい帳面をもう一度読み直した。
9か月ぶんだ。窓から人が降ってきた朝。塩を3杯入れた茶。10通りの笑い方。桶に足を突っ込んだ姿。氷水。花火。焼き菓子。炉に落ちた1冊。パン屋の二階。賭け札。壊れた留め金の鞄。作戦7つ。菓子の箱に入った帳簿。狩りの絵の下の広間。
全部書いてある。
順番も日付もそのときの体の状態も正確に書いてある。
書いていないものが1つある。
殿下がわたくしの手を握ったときの、指の温度だ。書き留めた覚えがない。覚えていないのではなく、書かなかった。
なぜ書かなかったのかも書いていない。
わたくしは頁を閉じた。
閉じてから、机の脇に立てかけたままの賞状が目に入った。金の縁取りに『よくやりました』と大きく書いてある。飾る場所がないので、まだそこに立てかけてある。
字が大きい。手順の紙と同じ字だ。7つの作戦を一晩で書いた人の字だ。
そこで、胸の重さが一段増した。
呼吸が浅くなって、鎖骨の下が押される。瞼の裏が乾いて、それでも何も出てこない。
わたくしは机に手をついた。
その姿勢のまま、あの日の噴水の音を思い出していた。
水の跳ねる音。砂利の鳴り方。城の中庭は音が高く響く。殿下は水に指を浸したまま、しばらく何も言わなかった。
それから立ち上がって、濡れた指先を陽に透かした。
『それだけは、自分で見つけて』
声の高さも間の取り方も、そこで一度息を吸ったことも、今なら正確に思い出せる。
あのとき、わたくしはその言葉を解せなかった。解せないまま『知りたい』と書いて、その頁を開いたままにした。
9か月かかって、開いたままの頁に戻ってきたことになる。
見つけろと言われたものを、わたくしはまだ1文字も書けていない。




