第29話 誰にも教わらなかった、その名前
早春の朝、わたくしは机の上に帳面を12冊とも置いていった。
ティルダが階段を駆け上がってきたのは、7時を少し過ぎたころだった。扉を叩く音が乱暴で、返事をする前に開いた。
「お嬢様。北の門から、今日の朝に」
走ってきたらしく、言葉が半分しか出ていない。わたくしは椅子から腰を上げた。
「殿下が、王都にお戻りでした。3日前から。道中の宿場から引き返されて、出立のときに置いていかれた荷と、残っていた御用の始末だそうでございます。今朝、また北へ発たれます」
「なぜ、教えてくださらなかったのですか」
「わたしも今、聞きました。厨房の子が、門番から」
わたくしは立ち上がった。
「時刻は」
「30分もございません」
外套を取ろうとして、掛かっている場所が遠いことに気づいた。取りに戻れば、そのぶん遅れる。
わたくしは部屋を出た。
帳面は持たなかった。
階段を降りる途中で母とすれ違った。
「リディア」
「はい」
「その恰好で」
「はい」
母は壁のほうへ半歩寄って、道を空けた。
「馬車は、玄関に」
「走ります。門から北の門までは、裏の坂を使ったほうが速うございます」
「調べたの」
「12日前に」
母の口の端がほんの少しだけ動いた。
「お行きなさい」
玄関の広間を抜けるとき、使用人が何人か出てきた。
洗濯係が扉を開け、玄関番が敷石の霜を箒で払い、料理番が「お気をつけて」と叫んだ。誰も止めなかった。
31人ぶんの顔を、わたくしは走りながら見た。書き留める暇はない。書き留めなくてもこれは覚える。
門を出て、坂を降りた。
朝の王都は市が立つ前で、通りに荷車が並んでいる。人の間を縫って走った。
走るという行為を、わたくしは効率が悪いと書いた。3日前まではそう思っていた。今、それが間違いだったと分かる。馬車は道を選ぶ。人は選ばない。
靴が石に引っかかって、片方が脱げた。拾わずに走った。
髪が解けた。結い直す時間はない。
パン屋の前を通った。焼き上がりの匂いがして、台に並んだパンの数を数えかけて、やめた。数える必要のない場面だ。
角で荷車にぶつかりそうになって、御者に怒鳴られた。謝らずに走った。謝る型は帳面の何十枚目かに書いてある。書いてあるのに今日は使わない。
使わなくてよい場面がある、ということを、わたくしは今朝知った。
息が上がる。喉が焼ける。脇腹が痛む。肺が空気を欲しがって、それでも足りない。
体のどこもかしこもがいつもより速い。
北の門が見えた。
馬車が門を出るところだった。荷を積んだ車が2台、その前に一回り小さい車が1台。
わたくしは声を出した。
出そうとして出したのではない。喉が勝手に開いて、聞いたことのない大きさの音が出た。
「殿下!」
馬車が止まった。
扉が開いて、金の髪が降りてくる。
殿下は数歩こちらへ来て、それから足を止めた。そこから、わたくしを上から下まで見た。
「……君」
「はい」
「靴」
「途中で脱げました」
「髪」
「解けました」
「帳面は」
「置いてまいりました」
殿下の口が半分開いた。
そのまま視線が下がって、裸足のほうの足で止まる。
「……走ってきたの」
「はい」
「馬車は」
「回り道になります。裏の坂のほうが速うございます」
「調べたんだ」
「調べました」
門の脇で、荷を積んだ車の馬が足を踏み替えた。
殿下がそちらへ一度だけ手を上げる。待て、という合図だ。
「……3日いたんだよ、ぼく」
「存じませんでした」
「うん。知らせなかった」
「なぜですか」
殿下は片手で前髪をかき上げた。
耳のあたりが赤い。走ってきたのはこちらのはずなのに。
「もう、呼ばれずに行くのはやめたんだ」
意味が半分しか取れなかった。取れなかったほうの半分が、たぶん大事だ。
「3年、ずっとそうしてきた。君の窓の下に立って、勝手に来て、勝手に見てた。……あれはもう、ぼくの番じゃない」
わたくしは息を整えようとして、整わないまま口を開いた。
「殿下」
「うん」
「これは、どういう顔をする場面ですか」
朝の風が門の間を抜けていく。荷車の御者がこちらを見ないようにしているのが分かった。
殿下はしばらく黙っていた。
それから、少しだけ笑った。
「……分かんない。ぼくも知らない」
「ご存じない」
「うん。だから、教えられない」
わたくしは頷いた。
頷いて、そこで腕が動いた。
決めたわけではない。いつもと同じ順番だ。伸びて、殿下の外套の袖を掴んでいた。
掴んでから、自分の手を見た。
これまでこの手が勝手に動いたのは、全部ほかの誰かのためだった。ティルダのために扇を掴んだ。落ちてくる人を受け止めようとした。木からぶら下がる裾を引いた。
今日は違う。
「行かないでください」
自分の声が震えているのが分かった。
「わたくしは、殿下に行ってほしくありません。理由は説明できません。並べようとしましたが、どれも当たりませんでした」
「うん」
「20の名前を全部当てました。全部外れました」
「うん」
「書いてあるものの中に、答えがありません」
視界が滲んだ。
頬が温かい。顎まで伝って、そこから落ちる。
二度目だ。
「殿下」
「うん」
「目から水が出ています」
「うん」
わたくしは指で受けた。落ちる前に受けられたので、地面には落ちなかった。
「今度は、故障ではありません」
殿下の目のふちが赤くなった。この人は泣かない。泣かないまま、目のところだけがそうなる。
「じゃあ、なんて言う?」
「分かりません」
「うん」
名前のないものは書けない。5つのころに、わたくしがそう決めた。
決めたのなら、決め直すこともできる。
「分かりませんが、書けます」
わたくしは袖を掴んだままの手に少し力を入れた。
「教わっていない言葉を、これから作ります。作った言葉が合っているかどうかは、誰にも確かめられません。それでもよろしいですか」
「いいよ」
「では」
息を吸った。
肺が空気で満ちるのを待ってから、わたくしは言った。
「殿下が、好きです」
門のところで、荷車の馬が鼻を鳴らした。
殿下は動かなかった。
長いこと動かず、それから、手の甲で自分の頬をこすった。あの夜と同じ仕草だ。耳が赤い。
「……ずるいなあ」
「ずるい」
「ぼくが3年かけて言わなかったやつを、君、走ってきて一発で言った」
「教えたくない感情とは、これのことですか」
「うん。それ」
「なぜ、教えてくださらなかったのですか」
「ぼくが名前をつけたら、君のものにならないから」
わたくしは頷いた。
今度は意味が取れた。
「戻ってきてください」
「うん」
「戻ってこられないなら、わたくしが参ります。北へは道が1本しかありません。馬車で12日です」
「調べたんだ」
「調べました」
殿下は笑った。目のふちを赤くしたまま、心の底から嬉しそうな顔をする。
この顔の記録なら帳面にある。あの朝、紫陽花の茂みの上で見た顔だ。
「じゃあ、待ってる」
「はい」
「あとね」
「はい」
「靴、拾って帰りなよ」
「拾います」
彼は馬車に戻って、扉のところで振り返った。
「リディア嬢」
「はい」
「ぼくも、まだ誰にも言っていない言葉を1つ作った。まだ言わない。君が北に来たら言う」
馬車が門を出ていった。
車輪が門の敷石の継ぎ目を拾って、その音がだんだん遠くなる。わたくしは片方裸足のまま、それが見えなくなるまでそこに立っていた。
帰り道で靴を拾った。
片方だけ履いて歩くのは歩きにくかったので、結局もう片方も脱いで、両方手に持って帰った。すれ違う人がみな二度見していく。
屋敷に戻ると、玄関にティルダが立っていた。
「お戻りなさいませ」
「ただいま帰りました」
「お顔が」
「顔」
彼女はそこで言葉を切って、前掛けを目に当てた。当てたまま、しばらく動かない。
「……申し上げるのは、やめておきます」
「なぜですか」
「今日は、お嬢様がご自分でお決めになった日でございますので」
その夜、机の前に座った。
12冊はあの夜と同じ順で積んである。線を引いた頁だけが、いちばん手前に出ていた。
わたくしはまだ何も書いていない頁を出した。
一行目に、誰の受け売りでもない字で書く。
『好き——習得』
字は滲まなかった。
涙は出ていた。出ていたけれど、今度は頁に落ちる前に指で受けられる。二度目の涙は名前を知っている。
顔のほうはたぶんまだ薄い。遅くて、薄くて、鏡に映しても大したものは映らないだろう。
治りません、と先生は言った。治す病ではないからだと。
それでいい。
これがどういう顔をする場面なのかは、もう、誰にも聞かない。




