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令嬢はこの気持ちの名前を知らない 〜「心がない」と婚約破棄された悪役令嬢に、殿下が感情をひとつずつ教えてくれます〜  作者: 夜凪 蒼


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第6話 眠れない夜ほど、書くことが増える

真夜中の廊下に、白い布をかぶった何かが立っていた。


蝋燭を持って近づく。布は洗い立てのシーツで、裾から見慣れた靴が出ている。踵の外側だけがすり減った、王城の職人が作った靴だ。


「殿下。裾が出ております」


「うらめしやー」


「その声も、昼と同じです」


シーツがめくれて、殿下の顔が出てきた。髪に静電気が立って、あちこちが跳ねている。


「幽霊、知ってる?」


「聞いたことはあります。死んだ者が、恨みを持って現れるのだと」


「こわくない?」


「死んだ者に何ができるのか、書いてある本がありません」


「本の問題!?」


殿下は廊下の真ん中でシーツを畳みはじめた。律儀に四つ折りにして、脇に抱える。


「じゃあ次いこう。実験2」


そこで、後ろから何かが倒れる音がした。


振り返ると、下働きの少年が床に伸びている。殿下がシーツを借りるために起こしてきた子だ。白い布を見て、そのまま目を回したらしい。


「あ」


「殿下。人が倒れました」


「幽霊、効いた」


「効いた相手が違います」


少年を厨房まで運んで、湯を飲ませて寝かせるまでに夜が半分終わった。


実験2は高所だった。


殿下について屋根に上がると、王都の灯が遠くまで散らばって見えた。風が冷たい。昼のあいだ日を吸っていた瓦はまだ生ぬるくて、掌の下でざらついている。


「ここ、地面まで結構あるよ」


「ございますね」


「落ちたら死ぬよ」


「先日、殿下が落ちられた高さの倍ほどです」


「それ、思い出させないで」


わたくしは端まで歩いて、下を覗いた。庭の白い砂利が薄く光っている。距離を測って、帳面に記録した。落ちたときに受け身を取れる高さかどうかは、知っておいたほうがいい。


風向きが変わって、遠くの街から鐘の音が届く。夜半の鐘だ。この時刻に屋根の上にいた記録は、12冊のどこにもない。


殿下のほうが先に瓦にしがみついていた。


「……ぼく、高いところ苦手だった」


「先日は樋に膝をかけて、逆さになっておられました」


「あれは勢い」


降りるときは殿下がわたくしの手を掴んで離さなかった。掴んでいるほうの手が汗ばんでいて、こわいというのはこういう身体の変化なのだと、そこで初めて具体的に分かった。


実験3は刃物だった。


厨房から借りてきた果物用のナイフを、殿下がわたくしの喉のあたりに構える。刃は喉に触れる手前で止まっていて、彼の手首のほうが震えていた。


わたくしは刃をよく見た。


「殿下」


「なに」


「切れ味が落ちています。刃こぼれが3か所。明日、研ぎに出させます」


「そういう感想!?」


「厨房の者が困ります」


殿下はナイフを放り出して、床に座り込んだ。


実験4は暗闇だった。蝋燭を全部消して、扉を閉め、窓の帳も下ろす。


「どう?」


「暗いです」


「それだけ?」


「机の左端に鉛筆、その奥に帳面が12冊。3冊目だけ少し前に出ています。取りましょうか」


「取れるんだ、暗闇で」


「置き場所を決めておりますので」


火を戻したとき、殿下は膝を抱えて壁にもたれていた。


蝋燭の丈が半分になって、影が前より濃くなっている。


「こわいってさ」


「はい」


「まだ起きてないことに対して出るんだよ。落ちるかもしれない、切られるかもしれない、出るかもしれない。その『かもしれない』が体に来るの」


「想像はします」


「するんだ」


「手順を作るためです。火事の手順も、落雷の手順も、そうやって作りました」


殿下がこちらを見た。膝を抱えたまま、顎だけをこちらへ向ける。


蝋燭の火が、彼の目の中で一つだけ揺れていた。


「じゃあ、それが作れないことが起きたら?」


わたくしは答えられなかった。


そういう場合の頁をまだ作っていない。作ろうと思ったこともない。手順の作れない事柄は、そもそも書きようがないからだ。


殿下はそれ以上何も言わず、シーツを畳み直して立ち上がった。窓の外はもう白みかけている。


翌日の昼、招待状が届いた。


銀の盆にのって運ばれてきたそれを、わたくしは窓辺で開いた。厚い紙で、縁に空押しの模様がある。封蝋は濃い緑で、ベルナール伯爵家の紋が押されていた。


茶会の招待だった。


両家の話し合いに先立ち、当家の庭で心安く一席を設けたい。日取りは5日後。


そこまではよくある文面だ。


続きに目を移した。


『お付きの者はご不要にございます』


指の先が冷たくなった。


紙を持っているのに、紙の温度が分からない。手のひらに汗が出て、それが冷えていくのが分かる。息が浅くなって、喉の奥が細くなった。


わたくしは招待状を机に置いて、両手を握った。


盆を下げようとしていたティルダがそこで手を止める。彼女の目もその一行のところで止まっていた。


「……当然でございます」


「何がですか」


「わたしのような者を、伯爵家の庭にお連れになるほうがおかしいのです。前からそうでございました」


彼女は盆を持ち直して、いつもの速さで扉へ向かった。速さがいつもと同じだったことのほうがなぜか気になった。


「どうしたの」


「室温です」


「え?」


「指が冷えました。窓を閉めます」


窓はもともと閉まっていた。


殿下が招待状を取り上げて、上から順に読んでいく。日取りのところで一度止まり、それから、いちばん下まで視線を落とした。


署名の欄だ。


彼はそこを読んだ。読み終えてから、目を上に戻して、もう一度同じ場所を読んだ。


「連名なんだ」


「はい。ベルナール伯爵と、モルガン侯爵閣下です」


「なんでそっちが出てくるの。婚約の話でしょ、これ」


「存じません」


「……ふうん」


殿下は招待状を裏返して、窓の光に透かした。


裏には何も書かれていない。彼はそれをわたくしに返した。


「リディア嬢。今、手はどう?」


わたくしは自分の指を見た。爪の色が薄い。関節を曲げるといつもより硬い。


「冷たいです」


「痛い?」


「痛みません」


「じゃあ、それ」


彼は招待状の最後の一行を指でなぞった。


お付きの者はご不要、と書いてあるところを。


「ここを読んだ瞬間に来たでしょ」


「……はい」


「それ、こわいっていうんだよ」


窓の外で雲が動いて、部屋の光が一段暗くなった。


「何がこわいのですか。茶会です」


「分かんないままでも出るんだよ、こわいは。体のほうが先に気づく」


わたくしは帳面を開いた。鉛筆を持つ指がいつもより思うように動かない。


『こわい——習得』


一行あけて、下に書き足す。


『ティルダを連れていけない、と読んだところで出た』


書いてから、その一行を長いこと見ていた。


わたくし自身が呼ばれていることには何も出なかった。呼ばれた場所が元婚約者の家であることにも、両家の話し合いという言葉にも指は冷えなかった。


冷えたのはティルダを置いていくと書いてあったところだけだ。


その晩、眠れなかった。


寝台に入り、目を閉じて20を数えて、また目を開ける。それを繰り返しているうちに、気づけば蝋燭に火を移していた。


書くことなら、いくらでもある。


茶会で聞かれそうな問いと、それに対する答えを並べる。ベルナール伯の型を思い出せるだけ書き出す。眉の上がる速さ、話を切り上げるときの咳払い、こちらを見ないまま話す癖。


庭の配置は12冊のうち3冊目に記録がある。出入口が2か所、生垣の切れ目が1か所。噴水は東寄りで、そこから門までは走って40を数えるあいだ。


茶に毒が入っていた場合の見分け方も書いた。書きながら、なぜ自分がそんな頁を作っているのか分からなかった。ベルナール伯爵家がわたくしに毒を盛る理由はない。理由はないのに、指が勝手にその項目を作っている。


途中で一度、廊下に出た。


ティルダの部屋の扉の前で立ち止まって、そのまま戻った。起こす理由が説明できない。眠れないので来ました、では用件にならない。


寝台に戻ってもまた同じところで目が開く。


殿下の言葉を思い出していた。手順が作れないことが起きたら、と彼は聞いた。今夜わたくしが作っているのは、手順の形をした何か別のものだという気がする。


夜のあいだに蝋燭を3本使った。


窓が白みはじめたころ、書き終えた頁を数えてみる。


新しく埋まったのは9枚。


眠った時間のほうは、1行も書けなかった。

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