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令嬢はこの気持ちの名前を知らない 〜「心がない」と婚約破棄された悪役令嬢に、殿下が感情をひとつずつ教えてくれます〜  作者: 夜凪 蒼


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第5話 見られていたと知って、耳が熱い

父の書斎に入ったのは4年ぶりだった。


前に入ったのは家庭教師を替える相談のときで、そのときも父は書簡から目を上げなかった。部屋の匂いだけが変わっていない。革の表紙と封蝋と乾いた埃。


「お仕事中に失礼いたします」


「用件を」


「5つの年に、わたくしを診た医師の名前を教えていただけますか」


羽根ペンが止まった。


父の手は書簡の上に置かれたまま、しばらくそこにあった。インクの粒が紙に落ちて、小さな染みを作っていく。


「なぜ、今さらそんなことを聞く」


「知りたいからです」


「……もう覚えていない」


「10人以上おいででした。最後まで残られた方です。白い髭の」


「覚えていないと言った」


父の声は大きくならない。母と同じだ。


「その話はするな。誰にもだ」


父はそこで顔を上げた。目が合ったのは一瞬ですぐに書簡へ戻る。


「下がりなさい」


わたくしは礼をして退いた。


扉を閉めてから、廊下で帳面を開く。


『父は羽根ペンを止めた』


その下に、止まっていた長さを書き足した。おおよそ、5つ数えるあいだ。


父の型は12冊のあちこちにある。書斎で見せる顔、客の前で見せる顔、母と並んだときの顔。どれも角度が決まっていて、変わることがない。


止まった羽根ペンだけが、どの型にも当てはまらなかった。


殿下は今日も窓から入ってきた。樋の金具は新しくなったのに、わざわざ楓の枝を経由してくるらしい。


「今日は褒める」


窓枠をまたぎながらの宣言だった。


楓の葉が一枚、靴について入ってきて、絨毯の上に落ちる。


「人は褒められると照れるんだよ。照れは感情の入口。100個いこう」


100。数の多さに意味があるのか、それとも言い切りたいだけなのか。


「数えといて」


殿下は椅子を蹴って向きを変え、両手を広げた。


「髪、きれい」


「侍女が結っております」


「1個目から!?」


「事実の確認です」


「褒めは確認するものじゃないんだよなあ」


彼はめげずに続けた。指がきれい。字がきれい。姿勢がいい。歩き方に無駄がない。記憶力が異常。紅茶の淹れ方が正確で目の色が珍しい。


わたくしは順に答えた。指は骨と皮です。字は書き慣れているだけです。姿勢は幼少期の矯正の結果で、目の色は父の家系のものです。


殿下は褒めるたびに角度と声色を変えた。正面から、横から、しゃがんで下から。一つ言うごとにわたくしの顔を確かめては、次の言い方に移っていく。


「30個いった。反応ゼロ」


わたくしは頷いた。数はこちらでも数えている。


「君さ、褒められて嬉しかったこと、ある?」


「そういう言葉を向けられたことが、ありません」


殿下は次の言葉を出しかけて、そのまま息だけを吐いた。窓の桟に置いた手が、行き場をなくして宙に浮いている。


聞き返されるだろうと思ったので、先に続けた。


「祝いの席では、みなさま定型の言葉を使われます。ご立派になられました、お美しくなられました。あれは褒めではなく挨拶です。帳面の分類が違います」


分類の頁は3枚に分かれている。挨拶、社交辞令、皮肉。どれも似た言葉を使うのに、言った人の眉と間の取り方で見分けがつく。


殿下はその説明を最後まで聞いて、それから天井を見上げた。しばらくして、部屋の隅で控えているティルダを手招きする。


「ティルダ。君やって」


「わ、わたしがですか!?」


「侍女なら知ってるでしょ。この人のいいところ」


ティルダは盆を胸に抱えたまま、目を泳がせた。


それから覚悟を決めたように、わたくしの前に立つ。


「……お嬢様は、雨の日に必ず、庭の犬小屋に藁を足すようにおっしゃいます」


「濡れると病になりますので」


「使用人の名前を、全員分覚えておいでです」


「顔と一緒に書いてありますので」


「熱を出した者がいると、その日の献立を粥に替えさせます」


「粥は消化がよいからです」


「……そういう話ではございません」


ティルダの目に水が溜まってきた。


声が途中から掠れて、最後の一言は聞き取りにくい。


「なんで侍女が泣くの」


「泣いておりません……!」


「その顔で言われてもなあ」


ティルダの袖はもう濡れていて、拭くたびに濡れた面積が広がっていく。


わたくしは新しい行に芯を下ろした。


『褒めは褒められた側より、褒めた側に効くことがある』


「今のも観察!?」


殿下は床に大の字になった。


天井を見上げたまま、指を折って数え直している。


「32個。あと68」


「33です」


殿下が指を折り直した。数え直しても、答えは変わらない。


「殿下が30、ティルダが3。足すと33になります」


「……あと67」


「本日は打ち切りになさいますか」


「打ち切りたくないけど、ぼくの語彙が先に死んだ」


昼を過ぎて、殿下が茶を淹れ直せと言い出した。ティルダを探して階下へ降りると、彼女は厨房にいるらしかった。


石の階段は下へ行くほど温度が下がる。かわりに、焼いた麦と煮えた葡萄のにおいが濃くなってきた。


廊下の角まで来たところで声が聞こえた。


「——だから、盆ごと落としてしまったのです」


ティルダの声だ。いつもより高い。


「本当に? お嬢様が?」


料理番の女の声。それから、若い下働きの子の声も混じる。


「笑われたのですか。心がないと言われている、あの」


「はい。口の端が、こう、少しだけ」


「まあ」


「ほんの少しでございます。でも確かに笑っておられました。わたし、12年お仕えしていて、初めて見ました」


わたくしは足を止めた。


「これ、奥様のお耳に入れたら、どうなさるでしょう」


「言いませんよ。聞きたくない話は、はじめから聞かれない方です」


「そうねえ」


「でも、わたしは見ました」


ティルダの声がそこで少しだけ震えた。


「あの方は、笑えるのです」


包丁の音が消えた。誰も何も言わない時間がしばらく続く。


それから年かさの料理番が、洟をすする音を立てた。


「そうかい」


「はい」


「そうかい」


同じ言葉を二度言って、その人はまた包丁を動かしはじめた。


廊下の壁は石で、背中をつけると冷たい。


耳が熱かった。


頬でも額でもなく、耳だけが、内側から燃えているように熱い。手を当てると自分の指のほうが冷たく感じる。喉の奥が塞がって、唾を飲み込むのに時間がかかる。


足が動かない。厨房へ入ることも、部屋へ戻ることもできず、わたくしは壁に沿って腰を落とした。


床の石も冷たい。冷たいものに二か所で触れているのに、耳の熱だけが引かない。


体温を測るなら額に手を当て、脈を見るなら手首を取る。どちらも今すぐできるのに、どちらもしたくなかった。


分からないことは書くしかないのに、鉛筆を抜く気にもなれない。


どのくらいそうしていたのか分からない。廊下の先から足音が近づいてきた。


「なにしてんの、こんなとこで」


殿下が上から覗き込んでいる。


「発熱です」


「え、大丈夫?」


「耳だけです」


彼は膝を折って、わたくしの顔を覗き込んだ。それから厨房のほうへ目をやる。まだ続いているティルダの声を聞き取って、ああ、という顔をした。


「聞いちゃったんだ」


「聞くつもりはありませんでした」


「うん。それでいいんだよ」


殿下は壁に背をつけて、わたくしの隣に並んで座った。絹の上着の裾が石の粉を吸っていくのを、彼は少しも気にしていない。


「それ、恥ずかしいっていう」


言われた名前を、わたくしは口の中で繰り返した。


「自分のことを、誰かが嬉しそうに話してるのを聞いちゃったときのやつ。悪口だったら熱くならない。君、悪口では熱くならないでしょ」


「なりません」


悪口は12冊のなかで最も記録の多い項目で、頁を割いて型を整理してある。何を言われても書く手は止まったことがない。


耳を押さえたまま、わたくしは考えた。


ティルダの声は高かった。語尾が跳ねて、ふだん報告をするときの半分の速さで、同じ話を二度繰り返している。あれは楽しいことを話す人の声の型だ。帳面に書いてある。


書いてあるのに、聞いた瞬間には何一つ思い出せなかった。


それでも聞かなければならないことがある。


「褒められても、わたくしは何も出ませんでした。同じ内容を、ティルダが別の場所で話していただけです。なぜ、こちらでは出たのですか」


殿下はしばらく黙ってから、膝を抱え直した。踵が石をこすって、短い音が二度鳴る。


「ぼくの言葉は、君に渡すために出してる。届けるつもりで投げてるから、君は受け取って、確認して、返してくる」


そのとおりだ。わたくしは受け取ったものを一度分解して、事実かどうかを確かめてから戻していた。


分解できるものは、こちらの内側まで来ない。


「でも今のは、君に渡すつもりで言ってない。ティルダは君のいないところで、勝手に言ってた。……そういうのが、いちばん効くんだよ」


耳の熱が少しだけ強くなった気がする。


腰の紐から鉛筆を抜く。手が震えていないぶん、字は歪まなかった。


『恥ずかしい——習得』


一行あけて、下に書く。


『これもわたくしのことでは出ていない。ティルダの声が弾んでいたから出た』


部屋へ戻る階段は、上るほど空気が乾いていく。麦のにおいが薄れて、代わりに紙とインクのにおいが戻ってきた。


殿下は椅子には座らず、机の前に立った。窓の外はもう傾いた光になっている。


「殿下」


返事は喉の奥で短く鳴った。机の木目のあたりに目を落としたまま、こちらを向かない。


「何をお考えですか」


「べつに。今日の実験、どこが駄目だったかなって」


そうですか、とわたくしは答えた。


彼が嘘をついているのかどうかわたくしには判別できない。判別できたためしがない。


殿下の指が机の縁に触れた。


1、2、3。


乾いた音が3つ、部屋の隅まで届いて、そこで消えた。

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