第4話 わたくしの肩が、勝手に揺れる
午前2時。わたくしは寝間着の胸に銀の匙の腹を押し当てて、中の音を聞こうとしている。
医師は診察のとき、患者の胸に耳を寄せる。同じことを自分にするには道具がいるはずだと考えて、水差しの脇に伏せてあった匙を使うことにした。
聞こえるのは自分の指が匙をこする音だけだった。匙の腹はすぐに肌の温度になって、押し当てている場所さえ分からなくなる。
寝台に戻って脈を数える。1分あたり72。昼と変わらない。額に手を当てても熱はなく、喉も痛まず、腹も静かだ。
それなのに、あの揺れは夜のうちに3度も戻ってきた。
最初は寝台に入った直後。二度目は蝋燭を消したあと。三度目はたった今で、きっかけはどれも同じだった。白い漆喰の跳ね方を思い出すこと。
わたくしは起き上がって、机の蝋燭に火を移した。
『症状。肩の不随意な運動。呼吸が短く区切れる。胸部に熱。痛みなし。持続はおよそ20を数えるあいだ』
書いてから、その下に付け足す。
『発作の前に、必ず殿下が桶に足を入れる』
読み返して、自分でも意味が取れなかった。
これまで体に起きたことは、全部そのまま書けばよかった。冬に指の先が白くなること。夜会のあとに耳の奥が鳴ること。原因と症状を並べておけば、次も同じように処置できる。
けれど今夜の一行は、並べた途端に馬鹿げて見えた。
窓を細く開けると、夜明け前の空気が入ってきた。庭の土がまだ雨を含んでいて、そのにおいが部屋の中まで上がってくる。
朝、まだ暗いうちに手紙を書いた。宛先は屋敷の医師。診察を願いたいという文面を3度書き直したのは、症状の欄をどう埋めるかで迷ったからだ。
窓の外が白みはじめて、廊下の奥から水を運ぶ音が近づいてくる。
「お嬢様、おはようござ——」
声が途中で切れた。
顔を上げると、扉のところでティルダが立ち尽くしていた。銀の水差しを胸の高さに抱えたまま、指先も睫毛も動かない。息を吸ったきり、吐いていないのが肩の位置で分かる。
わたくしは立ち上がった。
「ティルダ。落としませんでしたね」
「……はい?」
「これまでは三度でした。この部屋で水差しが一度、湯呑みが一度、盆が一度。湯呑みは一昨日です」
「か、数えておられたのですか」
「書いてあります」
ティルダの喉が鳴った。それから、いつもの倍の高さの声が出る。
「お嬢様、いま」
「はい」
「いま、笑っておられました」
わたくしは自分の頬に手を当てた。
指の下で、口の端が上がっている。左右ともわずかに。手鏡を取ろうとして、その前に自分の肩が小さく揺れているのに気づいた。
「故障です」
「ちがいます」
「呼吸が乱れ、胸が熱く、肩が動きます。医師への手紙を書きました。これから使いを——」
「ちがいます!」
ティルダは水差しを床に置いて、こちらへ来た。置き方だけは丁寧だった。
膝をついて、わたくしの手を両手で握る。彼女の手のほうが冷たい。それなのに、指の力だけがひどく強かった。
「それは、故障ではございません」
「では何ですか」
「おかしい、というのです」
湯の沸く音が、階下から上がってくる。
「面白いものを見たときに、勝手にそうなるのです。誰でもそうなります。わたしも、妹も、厨房の者もみんな」
みんな、と彼女は言った。その中にわたくしが入っているかどうかは言わなかった。
握られた指が、まだ冷たい。
「では、なぜ12年も起きなかったのですか」
ティルダが答えられずに黙る。握った指の力だけが強くなった。
わたくしは空いているほうの手で帳面を引き寄せて、鉛筆を抜いた。
『おかしい——習得』
芯の走る音がやけに大きい。書き終えて顔を上げると、ティルダは泣きながら、同時に笑っていた。
昨日、殿下が7つ目に実演した型だ。頬が濡れているのに口角が上がっていて、眉の内側だけが持ち上がる。わたくしが真似ると屋敷の者が逃げ出す型を、彼女はいとも簡単にやってのける。
「ティルダ」
「はい」
「その顔は、練習しましたか」
「しておりません……!」
「では、どこで習ったのですか」
「習うようなものでは、ございません……」
彼女は袖で顔を拭いて、それから思い出したように床の水差しを取り上げた。妹に手紙を書きます、と小さな声で言う。今日のことを書きます、と。
ティルダの妹は王都の南で奉公をしていて、月に一度、二人は手紙をやり取りしている。書く内容はいつもわたくしのことらしい。わたくしはその手紙を読んだことがない。
「ティルダ」
「はい」
「わたくしのどこを書くのですか」
「……お顔のことばかりでございます」
殿下が来たのはそれから1時間ほど後だった。
玄関から入り、階段を上がり、扉を叩いてから部屋に入る。人として正しい経路をたどってきたのはこれが最初らしい。
わたくしは事の次第を順に報告した。夜半の匙のことも、脈のことも、出さずに終わった手紙のことも省かずに話す。
報告が終わったとき、殿下は扉の前に立ったまま固まっていた。
「……ぼくが、いない、あいだに?」
「はい」
「取れたの。おかしいが」
朝に書いた行を開いて見せた。
「ぼくがいないあいだに!?」
彼は床に膝から崩れ落ちた。包帯の腕を絨毯につき、そのまま額まで床につける。
しばらく、絨毯の毛を掻く音だけがしていた。
「ティルダ。殿下が倒れました」
「た、ただ悔しがっておられるだけかと」
悔しい。これも記録のない語だ。
書き足そうとして、やめた。今日の獲得はもう一つある。1日に一つ。それ以上入れると、どれがどれか分からなくなる。
「もう一回やって」
床から声がした。
「無理です」
「ちょっとでいいから。ね、さっきのやつ、ね」
「肩を揺らすと、痙攣だとティルダが叫びます」
「叫びます!」
「ほら」
殿下は起き上がって、髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。
それから、諦めたように笑う。今度は本物のほうだ。目の下に細い皺が寄って、そこだけ影ができる。
「まあ、いいや。取れたならいい」
「よろしいのですか」
「よくないけど、よかった」
「どちらですか」
「両方」
「両方は、感情の一覧にありません」
「ぼくの中にはあるんだよ」
彼はティルダのほうを向いた。
それから、恭しいとしか言いようのない礼をする。王族が侍女に頭を下げている。ティルダが悲鳴を上げて後ろへ飛びのいた。
「ありがと。ぼくが3日かけて取れなかったやつ、君が一言で取った」
彼は椅子を引き寄せて、後ろ前に座った。
それから、机の上の手紙に目を止める。屋敷の医師に宛てた、出されずに終わったものだ。
「これ、何」
「診察を願う手紙です。夜中に書きました」
「これ書いてるとき、本気で医者を呼ぶ気だったの」
「はい。故障だと判断しましたので」
殿下がしばらく手紙を眺めている。持ち上げもせず、机に置かれたままの字面を追っていた。
それから、ごく何気ない調子で言った。
「ねえ。屋敷の医者じゃなくてさ」
「はい」
「5つのときに来たっていう、その医者。名前は?」
わたくしは口を開いた。
開いたまま、言葉が出てこない。
あの日、部屋には10人以上の医師がいた。順に脈を取り、瞼を裏返し、胸に耳を寄せていく。最後まで残ったのがいちばん年寄りの医師で、その人が父に向かって短く告げた。心の臓に欠けがございます。
顎の下の白い髭。指の関節の太さ。掠れて低い声。全部覚えている。
覚えていないのは、その人の呼ばれ方だけだ。
「……先生、としか」
「じゃあ、なんて呼んでた?」
「誰も呼びませんでした。父も、母も」
「呼ばなかったんだ」
「はい」
殿下は「ふうん」と言った。
先を聞かれると思って身構えていたのに、彼はそこで話を畳んでしまった。面白がらない殿下というものが、わたくしの記録にはない。
そのあと彼はいつもどおり窓から出ていったし、庭で庭師に怒られてもいた。けれど帰り際に一度だけ振り返って、わたくしの机の上の12冊を見る。見てから、何も言わずに窓を越えた。
夜、わたくしはその12冊を最初の頁から順に開いた。
5つの年の記録は、1冊目のはじめにある。字が大きく、線が曲がり、綴りの間違いも多い。書いてあるのは父の眉と母の口元と、家庭教師のため息の回数だ。
いちばん古い帳面は、表紙の角がもうすり切れている。開くたびに背の糸が鳴る。
医師の名前はどこにも書いていない。
書きはじめたのは、あの日の後だったからだ。




