第3話 笑い方だけは、教わっても身につかず
笑い方には10通りあるのだと、殿下は包帯を巻いた腕で数え上げた。
肘の手当てをしたのは屋敷の医師で、骨に異常はないと言った。庭の紫陽花は3株が潰れて、庭師が朝から黙って土を均している。樋の金具は職人が交換中で、梯子が壁に立てかけられたままだ。
「まず基本。貴族の笑い」
殿下は口の両端だけを持ち上げた。歯は見せない。目のあたりが同時にわずかに細くなる。
わたくしは帳面の余白に角度を写し取ってから、同じ形を作った。
盆を持ったティルダが後ずさった。
「どうですか」
「うーん。惜しい」
「どこがですか」
「目」
「目」
「口は合ってる。でも目が、こう、まっすぐこっちを見てるんだよ。獲物みたいに」
言われたとおりに目を細めてみる。今度は殿下が半歩下がった。
「うん、悪化した」
わたくしは手鏡を取って、自分の顔を確かめた。口角は左右とも同じ高さに上がっている。目の細め方も写し取った角度から外れてはいない。
それでも鏡の中の顔は、誰かに見せてよいものには見えなかった。
『笑いは口だけでは成立しない』
窓の外で、庭師が均していた土をもう一度均し直す音がする。
では口のほかに何が要るのか。そこが空欄のまま残った。
「じゃあ次。大笑い」
殿下は腹の底から声を出した。上体が後ろに倒れて、包帯の腕を押さえながら、それでも笑い続けている。息が続かなくなって咳き込んだ。
わたくしは真似た。
「はは。はは。はは」
廊下で何かが落ちる音がした。続いて、駆けていく足音。
「今の、誰か逃げた?」
「洗濯係でございます」
ティルダが小声で答える。
「3つ目。嘘の笑い」
「社交の場で使うやつ。つまらない話を聞いてるときの顔」
これは知っている。帳面に何十枚も型がある。わたくしが最も多く観察してきた笑いだ。
やってみせると、殿下がぱちんと指を鳴らした。
「うまい! これだけ完璧!」
「よく見ているものですから」
「……それ、あんまり嬉しくないやつだね」
彼は指を鳴らした手をそのまま下ろした。
4つ目のこらえ笑いは肩を震わせる型だ。わたくしが肩を上下させると、ティルダが「痙攣なさっています!」と叫んで駆け寄ってきた。
5つ目は嘲笑。鼻から息を抜くのだと言われて、そのとおりにする。
「馬が怒っているみたい」
「馬」
「厩の栗毛のやつ。あいつと同じ音」
殿下は面白がって、もう一度やってくれと言った。わたくしがもう一度やると、彼は腹を押さえて背中を丸め、そのまま床に片膝をついた。
笑うと痛むのだと言いながら、それでも彼は肘の包帯を押さえて笑い続けている。
痛いのに笑う。この型は帳面のどこにも入らない。
6つ目の苦笑い、7つ目の泣き笑い、8つ目の呆れ笑い。順に試すたび、屋敷のどこかで扉が閉まる音が増えていった。廊下を通りかかった女中は、こちらを見るなり回れ右をして戻っていく。
途中で一度、扉の外の足音が止まった。
絹の擦れる音。母の歩き方だ。踵を先に置く癖があるので、絨毯の上でも聞き分けられる。
足音は扉のすぐ前でしばらく動かず、それから来たほうへ引き返していった。殿下が扉を見て、わたくしを見て、何も聞かずに次の型に移る。
9つ目のとき、事件が起きた。
「悪だくみの笑い。片方の口角だけ上げて、顎を引いて、下から見る」
わたくしはその通りにした。
ティルダが盆を取り落として、その場に膝をついた。
「お、お嬢様、そのお顔は」
「まだ何も企んでおりません」
「おやめください、どうか、おやめください……!」
彼女は本当に泣いていた。両手を床につけて、肩を丸めて、絞り出すような声で繰り返している。わたくしは慌てて顔を元に戻した。
「ティルダ。怖かったのですか」
「……ちがいます」
「では、なぜ」
「そういうお顔を、お嬢様がなさらなくてはいけないのが、いやなのです」
意味が取れなかった。取れないまま、言われた言葉をそのまま書き留める。ティルダはいつもこうだ。わたくしの代わりに水を落として、その理由をわたくしには分からない言い方で説明する。
殿下が壁にもたれて、天井を仰いでいる。
「侍女を泣かせる笑顔って何なんだよ」
「わたくしにも分かりません」
「10番目はやめておこう。屋敷が空になる」
厨房まで下がらせたティルダの代わりに、わたくしが自分で茶を淹れた。湯の温度が高すぎたらしく、渋みが舌の奥に残る。殿下は文句も言わずに飲み干した。
「ねえ、リディア嬢」
「はい」
「君、笑い方は書けるんだよね。何百通りも」
「はい。12冊のうち、口の形の記録がいちばん多いです」
「じゃあなんで、書けるのに出ないんだと思う?」
わたくしは考えた。考えたけれど、答えは一つしか出てこない。
「出す理由がないからです」
殿下が眉を寄せた。言葉の意味を測りかねている顔だ。
順を追って話すことにする。
「葬儀で口の端を下げるのは、そうしないと咎められるからです。祝いの席で口角を上げるのも同じです。けれど、ひとりの部屋には誰もいません。誰もいないところで顔を作る理由が、わたくしにはありません」
殿下が茶碗を置いた。
音が思ったより大きく響いて、彼は自分でそれに驚いたらしく、置いた手をそのまま茶碗の縁に置いたままにしている。
「……あのさ」
「はい」
「笑いって、理由があって作るものじゃないんだよ。おかしいと思ったら、勝手に出るの。顔が先に動くの」
「おかしいとは、何ですか」
彼の口が開いて、そのまま止まった。
廊下の先で、職人が梯子を移している。金具の当たる乾いた音が、扉の下から入ってきた。
「……あ。これ、説明できないやつだ」
「できませんか」
「できない。うわ、初めて詰まった」
殿下は頭を抱えて椅子ごと後ろに傾き、危うく倒れかけて足で踏みとどまった。
「怒りは説明できたんだよ。自分の大事なものが乱暴にされたら出る、って。驚きも説明できる。予想と違うことが起きたら出る」
わたくしは鉛筆の先を紙に置いて、次の語を待った。
芯の先は、しばらく同じところに乗ったままになる。
「おかしいはさ。……おかしいから、出るんだよ」
「それは説明ではありません」
「そうなんだよなあ!」
彼は本気で悔しがっているようだった。包帯の腕を振り回して、それで肘が痛んだらしく、途中で動きが鈍った。
『おかしい——未取得』
わたくしはその一行を書いて、下に付け足した。
『殿下にも言葉にできないものがある』
書きながら、昨日の頁のことを思い出す。教えたくないものが一つある、と彼は言った。教えたくないのと、教えられないのはたぶん別のものだ。
けれどどちらもわたくしの手には渡ってこない。
帰り際、殿下は玄関ではなく庭を突っ切ろうとした。樋の修理のために職人が置いた漆喰の桶が、芝生の際に並んでいる。
彼はその一つに、見事に片足を突っ込んだ。
白い漆喰が跳ねて、彼の靴と裾を一気に染めた。片足立ちのまま、桶ごとぐるりと半回転して、最後は紫陽花の残骸の上に尻から落ちる。
「2日連続!」
殿下は空に向かって叫んでいた。職人が慌てて駆け寄り、庭師が両手で顔を覆う。ティルダが厨房から布を持って走ってくる。
わたくしはその一部始終を、順を追って帳面に書き留めた。
夜になった。
ティルダは下がり、蝋燭は一本だけ残っている。屋敷はもう静まっていて、庭の職人の道具を片づける音もとうに絶えていた。
わたくしは机に向かって、今日の頁を頭から読み返す。笑いの型が9つ。使用人の逃走が6件。殿下が言葉に詰まった回数が一度。
数えられるものは、いつもきちんと並ぶ。並べておけば、次に来たときに慌てずに済む。
そこまで指でなぞって、最後の行で指を戻した。
桶に足を突っ込んだまま半回転する殿下の姿が、ひとりでに浮かんでくる。
白い漆喰の跳ね方まではっきりと。
肩が揺れた。
自分で揺らした覚えはない。息が短く区切れて、喉の奥から空気が押し出される。押さえようとして肩に手を置いても、その下で震えが止まらない。
胸のあたりが熱い。呼吸が浅くなって、目の縁が少しだけ湿る。故障の型に似ているのに、痛みだけがどこにもなかった。
蝋燭の火が揺れる肩の影を壁に映している。
わたくしは鉛筆を握った。握ったまま、動かせない。
これに書ける名前が、12冊のどこにもない。




