第2話 朝から人が降ってくるとは
『知りたい』と書いた一行は、一晩たっても増えも減りもしなかった。
鉛筆の先を当てては離し、また当てる。感情の一覧を頭から辿っても、この隣に置ける言葉が見つからない。窓の外が白んで、庭の鶫が鳴きはじめる。
そこへ、階下から悲鳴が上がった。
「お嬢様っ、で、殿下が、玄関から!」
「玄関は、人が入るところです」
「それが異常なのでございます!」
ティルダの言い分にも一理ある。昨日は窓から入ってきた。
朝食の間へ降りると、殿下は敷石の上で靴の泥を落としているところだった。玄関番が扉を押さえたまま石像のように固まっている。
「おはよう。今日は普通に来た」
昨日は屋根の樋から逆さまに入ってきた。比べれば、たしかに普通ではある。
比べる相手が昨日のご本人しかいない点だけが、少し引っかかった。
「そこ、否定してくれてもいいんだよ」
食堂の扉は開いていた。父は書簡から目を上げない。母は殿下に向かって完璧な礼をして、それからわたくしの肩のあたりで視線を一度止めて、逸らした。
母の礼はいつも角度が正確だ。背筋の伸び方も指を重ねる高さも、教本に描かれた図とほとんど寸分違わない。
この動きも12冊のどこかに書いてある。書いた年は覚えていないけれど、頁の紙がもう黄ばんでいたはずだ。
殿下は扉の中を一瞬だけ覗いて、何も言わずに歩き出した。廊下を折れるまで、彼はいつもの半分の速さで歩いていた。
廊下に出たところで、ティルダが言いにくそうに袖を引く。
「お嬢様。昨日の中庭のことが、もう王都じゅうに」
「なんと」
「……人形が、牙を剥いた、と」
「なるほど」
わたくしは立ったまま帳面を開いた。
『わたくしは牙を剥いたことになっている』
牙という語は記録にない。悪魔と人形と失敗作の3つしか書いていないので、頁の下に余白を作って書き足しておく。
「いいねえ。進歩だ」
「よくありません!」
ティルダが本気で殿下に食ってかかっている。侍女が王族に対してとってよい態度ではないけれど、殿下のほうが楽しそうなので放っておくことにした。
わたくしの部屋に着くと、殿下は椅子に後ろ前で座った。昨日と同じ座り方だ。背もたれに顎をのせる高さまで同じらしい。
「今日は驚きを取りに行く」
取りに行く、という言い方をされると、狩りの獲物のように思えてくる。
わたくしは鉛筆を握り直した。
「怒りは他人のために出たでしょ。次は、体が先に動くやつをもう一個ほしい」
彼は指を1本立てた。
「今日の実験1。ちょっと後ろ向いてて」
わたくしは壁のほうを向いた。壁紙の継ぎ目が目の前にある。
背後で衣擦れの音がして、息を吸う気配があって、
「わっ!!」
耳のすぐ後ろで鼓膜が震えた。
同時に盆の割れる音。振り返ると、ティルダが床にへたり込んで、破片の中で胸を押さえている。
「ティルダ。怪我は」
「ご、ございません……」
唇の色が抜けている。膝が笑うらしく、破片の輪の中にへたり込んだままだ。
椅子を引いて、背を彼女の手の届くところへ寄せた。
わたくしは帳面の17頁を開いた。驚きの型を書いてある頁だ。口が開き、息を吸って、肩が持ち上がる。そのあとで声が出る。ティルダはその順番どおりに動いた。
『大声は後ろにいる者にもよく届く』
「君じゃなくて侍女に効いた」
「効きました」
「ぼく、いま人としてかなり駄目なことをした?」
「ティルダの湯呑みが割れました」
殿下は割れた破片を自分で拾い集めて、それをティルダに返しながら、真面目な顔で謝っていた。
謝る人の眉は外側の端がわずかに下がる。悲しむときの下がり方より角度が浅くて、そのぶん眉間に力が入っている。
わたくしはそれを書き足した。破片を受け取ったティルダのほうは、なぜか泣きそうな顔になっていたので、そちらも書いておく。
「実験2」
戻ってきた殿下は、氷室から運ばせた桶を両手で抱えていた。
「先にぼくがやる」
「なぜ」
「人にやらせて自分がやらないのは、なんか嫌でしょ」
彼は自分の頭から中身をかぶった。声にならない音を出して、その場で足踏みをする。
「うわ、つめた、つめたい、これ死ぬ」
「死にません」
「順番! 次、君!」
もう一つの桶を渡された。わたくしは持ち上げて、頭からかぶる。
冷たさが首筋を伝って、背中の中心をまっすぐ落ちていった。指の先の感覚が遠くなり、呼吸が一度だけ浅くなる。睫毛から落ちた雫が、床に小さな点を作った。
「どう!?」
「心拍が上がりました」
「お!」
「ただし、6つ数えるあいだに戻りました。ご報告いたします」
「報告しないで」
ティルダが乾いた布を持って走ってきた。わたくしより先に殿下の頭を拭こうとして、途中で相手が誰なのかを思い出したらしく、布を持った手が宙で止まる。
殿下はその布を自分で受け取り、律儀に礼を言って、それから頭のてっぺんをがしがしと拭いた。
濡れた髪のまま、彼は廊下にいた小姓を手招きする。何かを耳打ちした。小姓が困った顔で頷いて、走っていく。
しばらくして、その小姓が血相を変えて駆け込んできた。
「た、大変です! 西の棟から火が!」
わたくしは立ち上がった。
ティルダの腕を掴んで、扉のほうへ押しやる。
「先に出なさい。裏の階段は使わない。煙が先に上がります」
「お、お嬢様は」
「井戸は東側。桶は厨房の裏に4つ。今朝いる使用人は31人で、全員の顔を覚えています」
言いながら、わたくしはもう廊下に出ていた。
「待って待って待って」
殿下が背中に飛びついてくる。
「嘘です。今のは嘘。火は出てない。ごめんなさい」
廊下まで出ていた足を戻す。西の棟の窓に、煙も熱もない。
頭に並べた31人ぶんの顔を、順に追い出した。
「実験3でした」
小姓が廊下で土下座している。奥から執事が飛んできて、殿下は長いこと説教された。王族が使用人に叱られている場面の記述は、12冊のどこにもない。
執事の声は途中から震えていた。怒っているのか、恐れているのか、それとも両方なのか。判断がつかなかったので、震え方だけを書いておく。
説教が終わってから、わたくしたちは庭に出た。芝生がまだ湿っていて、歩くたびに土の匂いが立つ。
「なんで驚かないの、君」
「手順が書いてあるからです」
殿下が芝生に胡座をかいた。膝に露が染みるのも気にしない。
12冊目の巻末には、火事と落雷と急な訃報が、動く順番つきで並べてある。
「あらかじめ順番の決まっていることは、驚きようがないのです」
「……帳面にないことが起きたら?」
「そのときに決めて、書き足します」
「そこで書くのか」
殿下は草の上に仰向けに倒れて、両手で顔を覆った。指の隙間から、笑っているのか困っているのか判別のつかない息が漏れている。
それからいきなり跳ね起きた。
「よし。じゃあ最後、ぼくが窓から降りる」
「なぜ」
「昨日それをやったとき、君、ちょっとだけ変な顔をしたから」
断ってよいものかどうか帳面には書いていない。
殿下は庭の楓に登り、枝から屋根へ移って、樋を伝ってわたくしの部屋の窓へ向かった。ティルダが下で両手を組んで祈っている。
「見てて。ここから、ぐるっと回って——」
樋の継ぎ目が鳴った。
古い金具の外れる音だった。
殿下の体が外側へ傾く。掴んだままの樋ごと、朝の光の中を、金の髪が落ちてくる。
喉から声が出た。
聞いたことのない高さの、わたくしの声だ。
気づいたときには走り出していて、両腕が前に出ていて、それが間に合わないことも同時に分かっていた。
紫陽花の茎の折れる音。どさ、という重たい音。
「あいたっ」
殿下は茂みの上に仰向けになっていた。肘から血が滲んでいる。ほかは動く。
わたくしは膝をついた。脈を測ろうとしたのに、指が滑って手首を捉えられない。息が浅い。視界の端が白く飛んでいる。
膝の下で草の茎が潰れて、青い匂いが立ち上がった。折れた茎の断面が手の甲を擦っていくのが、痛みではなく熱として伝わってくる。
「殿下。お答えください。お名前は」
「ノエル」
「今日は何日ですか」
「知らない」
「意識障害です」
「ちがう、もともと知らないんだよ日付は」
彼は肘をついて起き上がりかけて、そこで、わたくしの顔を見た。
見て、起き上がりかけた姿勢のままになった。
「……リディア嬢」
「はい」
「今の、驚きだよ」
風が茂みを揺らす。青い花が一房、殿下の肩にのっている。
わたくしは自分の喉を押さえた。さっきの声の余韻が、まだそこに残っている気がする。
ティルダが遅れて駆けつけてきて、わたくしと殿下を交互に見比べ、それから両手で口を覆った。何か言いかけて、言葉にならずに座り込む。
紐に挿した鉛筆を抜く。手が震えて、字が斜めに倒れた。
『驚き——習得』
「取りに行ったやつは、全部外れたのにね」
殿下は背中から潰れた花を引き抜きながら、しみじみと言った。
「落ちたら出た」
「はい」
「ねえ」
彼はわたくしを見上げて、それから、心の底から嬉しそうな顔をした。昨夜も今朝も見なかった種類の顔だ。
「今の、ぼくのために出たね」
わたくしは頷く。間違ってはいない。
けれど、彼がなぜその顔をするのかが分からない。落ちたのは殿下で、痛いのも殿下で、得をしたのは記録が一つ増えたわたくしのほうだ。
『驚き——習得』の下に一行あける。
『殿下はご自分が落ちても、うれしいらしい』
最後の字を置いて目を上げると、殿下はまだ茂みの上に寝転がったままだった。肘の血を拭おうともせず、朝の空を見ている。
「ねえ。明日も来ていい?」
聞くまでもないことを彼は聞いた。断る理由のほうを、わたくしは持っていない。
そう答えると、彼はまた、あの顔をした。




