第1話 怒りは、わたくしのためには出ない
朝の7時。窓の外に、第二王子が逆さまにぶら下がっている。
正しくは屋根の樋に膝の裏をかけて、わたくしの部屋の窓を上下さかさまに覗き込んでいる。金の髪が重力にしたがって垂れ下がり、その先から昨夜の雨のなごりが落ちた。
「おはよう。開けて」
「ティルダ」
「ひっ、な、なんですかあれ、で、殿下!?」
ティルダが銀の水差しを取り落とす。絨毯に水が広がって、朝の冷たい匂いが立った。
わたくしは窓を開けた。開けないという選択肢もあったけれど、帳面によれば、王族の要請は断らないものらしい。
ノエル殿下は器用に体を折って窓枠を越え、床に降り立って、まず部屋を見回した。
「なにこの部屋。物がない」
「必要な物はあります」
「本棚に本が1冊もない。絵もない。花瓶もない。あるのは机と……ん?」
彼は机の上のものに目をやった。積み上がった帳面の背に、それぞれ年が書いてある。
「これ全部、君の?」
「12冊です。5つのころから、毎年1冊ずつ」
彼が手を伸ばした。表紙に指が触れる寸前で、わたくしの腕がその手首を掴んでいた。
絨毯に落ちた水が、靴の縁まで届いている。ティルダはまだ水差しを拾えずにいた。
「殿下。それは、お見せできません」
「……あ、ごめん。勝手に見ない」
彼は素直に手を引いて、それから、にやりとした。
「ねえ。今、手が出たね」
「はい」
「なんで?」
「分かりません。手が動きました」
本当に分からなかった。腕に命令を出した覚えがないのに、手首を掴む力の加減までちょうどよかった。
指を開くと、殿下の手首に赤い跡が残っている。
「いいねえ。じゃ、始めよう」
彼は椅子に後ろ前で座って、背もたれに顎をのせた。
「怒りっていうのはね。自分の大事なものが雑に扱われたときに出るんだ」
雑に扱われた覚えならある。昨夜も、その前の夜会でも。それでも何も出なかった。ならばわたくしには、そう呼べるものが一つもないということになる。
そう言おうとしたら、先を越された。
「だから実験1」
彼はティーポットを引き寄せると、わたくしの茶に塩を山盛り3杯入れた。
「飲んで」
わたくしは飲んだ。
「塩味です」
「うん、それは見てた。で?」
「塩は貴重品です。もったいないと思います」
「そっちの感想!?」
ティルダが背後で盆を持ったまま震えている。笑いをこらえているらしい。帳面の6頁、「肩が上下する」の型。
殿下は塩の壺を持ったまま、しばらく動かなかった。それから壺を置いて、机の縁を指で3度叩く。考えごとをするときの癖なのだと、あとで知ることになる。
「実験2。中は見ないから、安心して」
そう断ってから、殿下はわたくしの帳面を頭上高く掲げた。背が高い。爪先立ちでも届かない。
わたくしは椅子を持ってきて、その上に立った。
「そこ、道具使う?」
「はい。届きませんので」
「ふつう飛びつくんだよ。飛びついて、涙目になって、返してって言うの」
「効率が悪いです」
「効率の話してないんだよなあ」
殿下は帳面を返してよこすと、椅子を降りるわたくしの手を支えた。手のひらがわたくしより温かい。
それから彼は少し声の調子を変えた。
「じゃ、最後。実験3」
「はい」
「——人形」
低く、静かな声だった。昨夜の広間で誰かが使ったのと、同じ抑揚をそのまま使っている。
わざとだ。わざとやっているのが分かった。
「心のない蝋人形。オルコットの失敗作。あの目に見つめられると、背中が寒くなる」
「よく言われます」
わたくしは頷いた。ひとつだけ訂正しておく。
「『背中が寒くなる』は初めてです。書き足しておきます」
「……書き足すな」
殿下は前髪をぐしゃりと掴んで天井を仰いだ。窓の外で雀が鳴いている。
「材料が足りないな。外、行こう」
城まで馬車で20分。そのあいだ殿下はほとんど窓の外を見ていた。人が初めて何かをする顔を見るのが好きなのだと、道々ひとりで喋っていた内容を要約するとそうなるらしい。
それならわたくしは、彼にとって最も収穫の少ない相手のはずだ。それでも彼は上機嫌で、遠回りになるからと御者に二度も道を変えさせた。
王城の中庭は砂利を踏む音が高く鳴る。噴水を囲んで白い薔薇が植わっていて、ダルクール家が今年寄贈したものだと庭師が誇らしげに言っていた。花の匂いは朝より昼のほうが濃い。
その薔薇の前に、ヴィオレット嬢がいた。取り巻きの令嬢が二人。
「あら、オルコット様。昨夜はごきげんよう」
ヴィオレット嬢が膝を折る。角度も、戻す速さも申し分ない。わたくしも同じだけ折り返した。
砂利の音が止んで、噴水の水の音だけになる。
「まあ。昨夜の染みは、きれいになりまして?」
「落ちません。あれは絹ですので」
「……そう」
会話が途切れる。ヴィオレット嬢は扇を開いて、口元を隠した。目がわたくしの後ろへ動く。
籠を抱えて控えているティルダのところへ。
「ねえ、あなた。ティルダといったかしら」
ティルダの肩が跳ねた。
「人形のお世話係。お給金はいくらいただいているの? 同情料が上乗せされているのでしょう?」
「毎日あの目に見つめられて、よく耐えられますこと」
「夜、こわくない? 寝ているのかしら、あの方」
ティルダは俯いた。籠の縁を握った指が白くなって、細かく震えている。
そのとき、わたくしの手が動いた。
自分の手なのに、命令を出した覚えがない。伸びて、ヴィオレット嬢の扇を掴んで、彼女の指からそれを引き抜いていた。
「……返して」
「いいえ」
声が低い。わたくしの喉から出ている音なのに、聞いたことのない音だった。
耳が熱い。呼吸が浅くて、速い。視界の端が暗くなって、ヴィオレット嬢の顔だけがくっきり見える。喉の奥に何かが詰まっていて、それを押しのけるようにして言葉が出た。
「ティルダは、わたくしの侍女です。彼女にその言い方をなさらないでください」
薔薇の茂みが揺れた。令嬢の一人が後ずさって、ヴィオレット嬢は扇を取り返そうと手を伸ばし、途中で引っ込めた。
わたくしを見上げた顔から、血の気が引いていく。
「……なによ。今の顔」
自分の頬に触れてみた。どこがどうなっているのか、指では分からない。
「今、あなた、」
彼女は最後まで言わずに、令嬢たちを引き連れて去っていった。砂利を蹴る音が遠ざかる。
心臓が速い。頬が熱い。指が震えて、扇を取り落とした。
息が整わない。肋の内側で何かが暴れていて、その震えが指先まで降りてくる。座らないと倒れると体のほうが判断したらしく、わたくしは噴水の縁に腰を下ろした。石が冷たい。
「……故障です」
自分の手のひらを見た。てのひらの線が滲んで見える。目のほうもおかしいらしい。
高い熱を出した冬に、これと似たことが一度あった。あのときは寝台で3日眠って治った。
「殿下。医師をお呼びください。心臓が速く、耳が熱く、指の先が定まりません」
「呼ばなくていい」
噴水の縁に腰かけた殿下が、両手で口元を覆っている。目のところだけが見えていた。
「それが、怒り」
水の跳ねる音がやけに近い。
わたくしは震える手で帳面を広げ、鉛筆の先を紙に置いた。字が歪む。
『怒り——習得』
12冊のうち、感情の名前を書いた頁は一つもない。顔の型と、その型が出てくる場面。それを12年ぶん集めても、名前だけはどこにも書けなかった。
そこまで書いて、行をひとつ空けた。書き足すべきことがある。
『ただし、わたくし自身のことでは出ない。ティルダのことでは出た』
ティルダが袖で顔をこすっていた。今日は水を落とすなと言っておかなければならない。落とされると、こちらの胸が重くなるからだ。
殿下が横から覗き込んでその一行を読んだ。それから、めずらしく黙った。彼は水に指を浸したまま何も言わず、噴水の音だけが長く続く。
「……ね、リディア嬢」
「はい」
「ぼく、全部教えるって言ったよね。あれ、嘘」
書きかけの行に鉛筆を置いたまま、わたくしは顔を上げた。
昨夜の約束は、1日ももたずに書き換わるものらしい。訂正が要る。
「一つだけ、教えたくないのがある」
彼は立ち上がって、濡れた指先を陽に透かした。その横顔は帳面のどの頁にも当てはまらなかった。
「それだけは、自分で見つけて」
わたくしは新しい頁を開いた。
『殿下には教えたくない感情が一つある』
一行あけて、その下に書く。
『知りたい』
そこで鉛筆が止まった。「知りたい」は、感情の一覧に載っていない。
書き足すべきか、消すべきか。判断がつかないまま、わたくしはその頁を開いたままにしている。




