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令嬢はこの気持ちの名前を知らない 〜「心がない」と婚約破棄された悪役令嬢に、殿下が感情をひとつずつ教えてくれます〜  作者: 夜凪 蒼


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第0話 これは、どういう顔をする場面ですか

わたくしの頬に葡萄酒がかかった瞬間、広間の音が全部消えた。


楽団が一小節だけ遅れる。どこかで扇の閉じる音がして、それから、この場にいる全員の視線が一斉にこちらへ向いた。


顎を伝って、赤いものが胸元へ落ちていく。体温よりわずかに冷たい。絹に染みが広がって、その部分だけ布の重さが変わっていくのが分かる。唇の端に入った一滴が渋くて、蝋の匂いに葡萄の匂いが混ざった。


観察を続ける。周りの方々はみな似たような顔をしていた。眉が持ち上がり、口の端がわずかに引き上がり、けれど笑ってはいない。


何かを待っている顔だ。


何を、待っているのだろう。


「……あら。ごめんあそばせ」


空になった杯を持ったまま、ヴィオレット・ダルクール男爵令嬢が口元を押さえた。声が細かく震えている。震えているのは声だけで、目のほうは少しも震えていない。


「手が、滑ってしまって」


「手が滑ったのですね」


わたくしは頷いた。事実の確認は大切だ。


「では、拭くものをお借りできますか」


広間の温度が下がった。


「な……」


ヴィオレット嬢の口が半分開いたまま止まる。その背後で、令嬢が二人、顔を見合わせた。


「ほら、やっぱり」


「なんとも思っていないのよ、あの方」


「悪魔だわ」


悪魔。帳面の23頁に書いてある言葉だ。わたくしを指すときに使われる頻度が最も高くて、次点が「人形」、その次が「オルコットの失敗作」。


今夜の主催はダルクール家の後ろ盾であるモルガン侯爵で、壁には狩りの絵が並んでいる。矢の刺さる寸前の鹿。逃げる背に牙をかける猟犬。わたくしはちょうど、その真下に立っていた。


みなさま、杯を持ったままこちらを見ている。誰も助けに来ないし、誰も止めに入らない。それも帳面に書いてあることだ。


わたくしはリディア・オルコット。オルコット公爵家の長女で今年17になる。


そして、生まれてから一度も笑ったことがない。


泣いたこともない。怒ったことも驚いたことも、寂しいと思ったこともない。5つのころに王都じゅうの医師が呼ばれて、最後にいちばん年寄りの先生が言った。心の臓に欠けがございます。


父はその場で部屋を出ていき、母はその晩からわたくしの前で微笑むのをやめた。


だからわたくしは帳面をつけている。


人の顔と、その顔が出てくる場面を書き留めるのだ。葬儀では口の両端を下げる。祝いの席では歯を見せずに口角を上げる。同じ場面が二度目に来たとき、書いてあるとおりに顔を作れば、たいていのことは滞りなく進む。


けれど今夜のこれは、どこにも書いていない。


わたくしは顔を上げた。ヴィオレット嬢は、まだ口を開けたままでいる。


「あの」


「……は、はい」


「これは、どういう顔をする場面ですか」


しん、となった。


楽団が完全に演奏をやめる。給仕が盆を持ったまま固まって、どこかで令嬢が「ひっ」と喉を鳴らした。


説明が足りなかったのかもしれない。わたくしは順を追って話すことにした。


「怒った顔をすべきなのか、微笑むべきなのか、判断がつかないのです。ダルクール嬢は謝罪をなさいました。謝罪を受けた側は微笑むものだと帳面にあります。ただ、頭から葡萄酒をかけられた場合の記述がありません」


「わ、わたくし、そんな、わざとでは」


「存じております。先ほど、そのようにおっしゃいましたので」


「……っ」


ヴィオレット嬢の目に、みるみる水が溜まっていく。


これは知っている。帳面の8頁。人は追い詰められるとこうなる。


わたくしが追い詰めたのだろうか。質問をしただけなのに。


人垣が割れた。


「リディア」


低い声だ。婚約者のアルヴィン・ベルナール様が、髪を一分の隙もなく撫でつけて立っている。眉のあいだに皺、声は半音下がっている。帳面によれば、これは「叱責」の型。


「なぜダルクール嬢を泣かせている」


「わたくしがしたのは質問です」


「その質問が人を泣かせるんだ」


「なるほど」


わたくしは帳面を取り出して、腰の紐から鉛筆を抜いた。


『質問は人を泣かせることがある』


書いているあいだ、広間の誰も口をきかなかった。芯の走る音だけが響く。


「……君は」


アルヴィン様の声が震え出す。さっきのヴィオレット嬢とは震え方が違って、こちらは目まで震えている。


「今、書いたのか。この状況で」


「忘れてしまいますので」


鉛筆を紐に戻した。アルヴィン様の胸が大きく上下しているのが、襟飾りの揺れで分かる。


広間のどこかで、扇が鳴った。催促の音だった。


「リディア」


彼は息を吸い、広間じゅうに届くちょうどの声量で言った。


「君には、心がない」


「はい」


わたくしは頷いた。事実だ。医師も同じことを言った。


その瞬間、アルヴィン様の顔が変わった。眉が上がり、鼻の付け根に皺が寄って、頬の血の色が濃くなる。帳面の11頁。「怒り」と書いてある型だ。


ああ、またこの顔だ、と思う。


わたくしといると、みなさま、いつかこの顔になる。父も母も家庭教師も婚約者も。順番と速さが違うだけで、行き着く先は変わらない。


「婚約については、父と話す」


彼はそう言い残して背を向けた。周りがどよめいて、誰かが小さく笑う。


胸元の絹が冷たく張りついていた。絨毯に落ちた葡萄酒が吸われていく音が、やけに大きく聞こえる。


わたくしは帳面を開き直した。今夜のことを書いておかなければ。次に同じことが起きたときのために。


「ねえ。それ、なんて書いたの」


声が真上から降ってきた。


顔を上げると、金の髪の男が給仕の盆から杯を取り上げるところだった。そのまま、自分の頭の上でひっくり返す。


赤が前髪を伝って、睫毛の先から落ちた。


「うん。これで揃いだね」


広間で悲鳴が上がった。ノエル殿下、と誰かが叫んで、給仕が盆ごと膝をつく。


第二王子ノエル。帳面の記述は3行しかない。「変わり者」「王位継承権を自分から捨てた」「近寄るなと父に言われている」。


「なぜ、そのようなことを」


「君だけ濡れてるの、不公平でしょ」


意味が取れなかった。杯の中身は等しく減って、絨毯の染みは二つに増えた。損得でいうなら、この方の損が加わったことになる。


わたくしは頁をめくった。その言葉の項は、どこにもない。


「あー」


彼は濡れた前髪をかき上げて、ひどく楽しそうな顔をした。


「そこからかあ」


それから膝を折って、わたくしと目の高さを合わせる。前髪から落ちた雫が、絨毯に小さな点をいくつも作った。


「リディア嬢。さっきの、怒っていいところだったよ」


書き取った顔なら作れる。眉の角度も、口の結び方も、頁をめくれば型が並んでいる。


けれど彼が言っているのは、たぶん顔の作り方の話ではない。


「怒るとは、何ですか」


返事がなかった。


しばらくわたくしの顔を見て、それから手の甲で頬をこする。耳が赤い。


「今の質問さ。ぼく、3年待ってた」


数字が出たので、反射で頁の隅に書き取った。


3年。わたくしが初めて夜会に出てからの年数と、ちょうど同じだった。


「誰かが君に教えてやるのを待ってたんだけど、誰も教えないんだもん。悪口だけ教えて」


彼は立ち上がりながら、濡れた手を差し出した。前髪の雫はもう落ちきって、襟のあたりが重たそうに垂れている。


その手のひらには、葡萄酒の色が薄く残っていた。


「教えていい? 感情、全部」


わたくしは帳面の新しい頁を開いて、一行目にこう書いた。


『怒り——未取得』


「お願いします」


「よし。じゃ、明日の朝7時ね」


「どちらへ伺えばよろしいですか」


「行くよ、ぼくが」


馬車に乗り込むと、侍女のティルダが待っていた。わたくしの胸元の染みを見るなり、彼女は口を押さえ、それからぼろぼろと泣き出した。


「ティルダ。目から水が出ています」


返事の代わりに、彼女は首を横に振った。振りながら、わたくしのドレスの染みを何度も拭う。もう取れるはずがないのに、指が止まらないらしい。


痛むところはないという。転んでもいないし、叱られてもいない。それでも水は出つづける。


「では、なぜ」


「お嬢様が、なんともないお顔をなさるからです」


窓の外を、王都の灯が流れていく。頬にはまだ葡萄の匂いが残っていた。


胸のあたりが少し重い。


……重い?


わたくしは帳面を開いて、鉛筆を当てて、そこで止まった。名前の分からないものは書きようがない。


朝の7時まであと10時間。


名前のないものを抱えたまま、わたくしはそれを数えている。

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